馬車郎の私邸

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モンテーニュ「エセー」 1巻第14章「幸、不幸の味は大部分、われわれの考え方によること」要約

要約です。

人間は、事物自体ではなく、事物について抱く考え方によって苦しめられている。もしも、われわれがこの命題をあらゆる場合に真実であると証明できるならば、人間の悲惨な状態を軽減するのに大いに役立つであろう。というのは、もしも不幸がわれわれの判断だけを通じてはいってくるものであれば、これを軽蔑し、幸福に転ずることはわれわれにも出来るように思われるからである。

われわれは死や、貧困や、苦痛を主要な相手だと考えている。ところである人たちが恐ろしいもののうちで最も恐ろしいものと呼んでいる死を、別の人たちが現世の苦しみの唯一の避難所、自然の最高善、われわれの自由の唯一のよりどころ、万病に効く即効薬と名づけているのを知らない人はあるまい。ある人は恐れおののきながら、死を待っているのに、他の人は生よりも容易に死に堪えている。

「死そのものは、死を待つことよりもつらくない」(オヴィディウス)

死においてわれわれが主に恐ろしいと言っているものは、実は死の通常の先触れである苦痛なのだ。ちょうど貧乏が恐ろしいのは、それが渇きや飢えや、寒さや暑さや、徹夜とかの苦痛でもってわれわれを抱きしめるからに他ならないようなものだ。

そこで苦痛だけを問題にしよう。私はこれがわれわれ人間にとって最悪のものであることを認める。しかも心から認める。けれども、これを絶滅できないまでも、せめて忍耐によって緩和することは、また、肉体が動揺しても魂と理性の調子をしっかりと保つことは、われわれにも出来ることだ。

もしもそうでなければ、徳、勇気、強壮、剛毅、果断などをわれわれの間で誰が尊敬するであろうか。いどむべき苦痛がないとしたら、これらはどこにその役目を演じるだろうか。

「人は軽薄の友である歓喜や快楽や、笑いや冗談などによって幸福なのではない。むしろ、しばしば、悲しみの中にあって、剛毅と不屈によって幸福なのだ。」(キケロ「善悪の限界」)

「頬に涙は流れても、心は不動である。」(ヴェルギリウス「アエネイス」)

精神が自由に出来る何千という手段の中から、われわれの安静と保全にふさわしい、ひとつの手段をそれに許してみよ。そうすれば、われわれはあらゆる攻撃から守られるばかりではなく、攻撃や不幸からもその気になれば恩恵を受け、満足を得ることも出来るのである。

われわれが逃げれば、敵がますます猛烈に攻めてくるのと同じように、苦痛も、われわれがその下におののくのを見ると得意になる。苦痛は頑として抵抗するものにはあっさりと降伏する。われわれは苦痛に抵抗し、強気に出なければならぬ。弱腰になって下がれば、われわれを脅かしている破滅を自ら招くことになる。

運命はわれわれに幸福も不幸も与えない。運命はただその素材と種子を提供するだけだ。われわれの心がそれを幸福にも、不幸にもする唯一の原因であり、支配者なのだ。単にものを見るだけではなく、いかに見るかということが大事である。

ところで、それならば、人間に死を蔑視し苦痛に耐えよと教えるところのこれほどたくさんの所説のなかから、なぜわれわれはどれが自分の役に立つものを見出さないのか。また、他の人にそのことを納得させたこれほどたくさんの思想のうちから、なぜ各人は気質に合ったものを自分に用いないのか。

誰でも長い間、不幸なのは自分が悪いからに他ならない。(キケロ「トゥスクルム論議」)

死も生も堪える勇気のない人、抵抗しようとも逃げようともしない人、こういう人にはどうしてやればよいだろうか。