馬車郎の私邸

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ここで一句「勉強は しないできない やりにくい そんな仕組みに 今生きている」

 

 

 学力の低下に対する問題として、なぜ子供たちは学ばなくなったかについて、子供たちの内面、メンタリティに着目した議論が多い。一方で、子供たちの外面的な環境は、学校という仕組みや教育費の問題、またいわゆる学歴社会や格差社会との連関から論じられる。ここでは、現代の子供たちを取り巻く環境、とりわけ子供の学習に向かう姿勢や関心、意欲を阻害する外的要因について順に考察する。

 まず第一に、現代の子供たちはかつてないほどに、娯楽に取り囲まれていることだ。あまりにも娯楽へのアクセスがたやすいことによって、子供たちは学校以外のことに対して関心を向けがちな傾向にある。もしくはそのようなバイアスの下にある。

 たとえば携帯電話は、おそらくは10代の子供たちの時間のなかにしっかりと根付いている。友人との際限のないメールのやり取り、ネットへのアクセスやゲームアプリは、携帯電話を持っていなかった世代に比べると、はるかに時間を消費させている。携帯電話がなかった、あるいはほとんど普及していなかった90年代以前の学生に比べ、2000年代の学生は、携帯電話に割く時間という―ある意味ではハンデ―を背負って、学習に取り組んでいるのである。そして、携帯電話会社は、学割など様々なキャンペーンを行い、10代の学生たちに、携帯電話を持たせることを推進してきた。ましてやスマートフォンは多機能で便利すぎるのである。

 パソコンも本格的に各家庭に普及し、所有が当たり前になったのは、2000年代である。この機械を使えば、実に様々な無料の娯楽と求める情報に達することができる。これまでは、娯楽や情報を手に入れるためには、金と時間と労力とが必要であった。しかし、パソコンの広汎な普及は、娯楽や情報にアクセスする敷居を大きく下げた。すなわち、家にあるパソコンを使えば、無料でしかもすばやく手に入れられる。(初期投資としてのパソコンは親が買うだろうし、電気代とインターネット接続料金も親が払うだろう)今や、音楽も動画も、たとえばTSUTAYAに行って買ったり借りたりすることなく、ネット上で大半は無料ですぐ手に入る。定額制の動画・音楽配信サービスも隆盛を極めている。

 このような電子機器の進化により、10代の学生、子供たちは、抗しがたい誘惑の数々の洪水に流されている(それは大人もだが)。昔からあり今なお健在なテレビを見る時間、かつてはなかった携帯電話とパソコンに費やす時間、格段の進化を遂げたゲーム機器と音楽機器に興じる時間。これらの時間は、かつてとは比べ物にならない。統計データはこの点を考慮するべきだろう。2000年代以降の子供たちと、それ以前の子供たちとでは、「周りを取り巻くあまりにも身近で使いやすい娯楽の機械と機会の数」が違い過ぎるのだ。

 つまり、いわば同じ土俵で戦ってはいないため、年代ごとのデータの単純比較から得られる知見は、前提や環境が違うので、その信憑性についてある程度批判的な吟味が必要であろう。だから、この背景の違いを考慮し加味して、統計データを見なければならない。ファミコンに興じた世代と、PSPやNintendoDS、Switchを楽しむ世代は明白に違うし、ポケベルとガラケー、スマートフォンでは雲泥の差だ。現代の子供たち、学生たちは、「学校のこと」よりも「学校以外のこと」が心を占める割合が大きくなりがちなのである。かつてはなかったものに対して、現代の子供たちは時間を使っている。このような条件下で、学校内外で勉強するには忍耐力・集中力が昔よりもはるかに必要だ。昔の子供たちと比べて、今の子供たちはある意味でアンフェアな条件におかれている。

 第二に、社会経済的要因である。私立と公立の大学進学実績の格差が開き(とはいえ一般に地方では私立が少なく、公立の名門は健在ではあるが)、進学した中学校次第で、将来に対する期待感と勉強に対するモチベーションが変わるからだ。私立受験が活発になっているため、中高一貫校がもてはやされ、私立高校の定員は大きく減るか、募集が停止する傾向にある。都内の有力新学校の募集定員は中高で比較すると、高校の定員は少ない。

 私立中学と公立中学、私立の(偏差値上の)上位中学と私立の下位中学。それぞれモチベーションにおいて格差が生じる。就職において、企業規模と大学の学歴差の間には相関性があるため、よい企業に入るためにはよい大学に入り、よい大学に入るためにはよい中学に入ることが必要だと、一般的には信じられている。(実際にそうなのかよりも、そうであると信じている人が多い、信じるべきとされている点が重要だ。いわゆるシグナリング効果である)。こうした一般論に基づくと、都立や県立の中学に進学した子供は、スポーツや芸術で身を立てようと思う場合は別として、自らの世俗的成功の伸びしろと期待値を低く設定せざるを得ないのだ。こうして、学校に対する期待も、勉強することで未来を明るいものにできるという期待にも、自身の意思を圧倒するほどに薄れさせるバイアスがかかってしまう。

 中学校受験のためには、公立小学校においてまじめに勉強をするのでは不足で、塾通いによって入試に備える必要がある。つまり塾に通うための経済力がなければ、中学校受験の機会はほぼない。親の年収を前提に、機会のあるなしが決まる「機会の不平等」は、階層間の流動性を損なう。事実かフィクションかは議論の余地があるが、日本は1億総中流といわれ、格差が少ないと信じられてきた。中学校受験というチャンスをつかめるかは、親の経済的な資本だけではなく、社会的資本(しつけや、教育方針、考え方、 生活習慣、コミュニケーション力など)も大きくかかわっている。「努力すれば、~になれる。」型の期待をしづらくなっていることも、勉強のモチベーションを低くする要因のひとつである。

 第三に、子供たちはシステムの中に位置づけられているという問題である。外的な、環境や社会情勢と、それをめぐる通俗的な言説は、子供の内面の思考に影響を与える要素である。バブル崩壊以降、日本には明るいニュースは基本的にない。統計データと無関係に凶悪な少年犯罪が増したかのような報道がなされ、第2次安倍政権まではマスメディアの揚げ足取りと積極的なバッシングで首相は短いスパンで交代した。極度に国債に依存する政府の財政は破綻の可能性をたぶんにもち、年金を含む福祉制度の維持もはなはだ疑わしい。

 このように、未来に対して期待できる要因は、報道によってもたらされるニュースには、そう簡単に見当たらない。このようなニュースを聞いて育つ子供たちは、将来のためにがんばろうという意識が育ちにくい。教育の成果は事後的に現れるけれども、今目の前のことをがんばることが、自分の未来につながるのだと漠然と信じることさえも難しい風潮をメディア自らが増幅して発信している。社会の風潮と気分というシステムの中で、子供たちは(大人たちも)学校での活動に希望を抱くことや、学校を利用して自らの成功につなげる努力をしにくい世の中に生きているのである。

 身近にある娯楽に目を向けることが、学校に関わることよりも、楽で楽しい。子供であれ、大人であれ、すぐできることや簡単にできることは魅力的だ。刹那的で享楽的に日々をすごすためのシステムの中に、子供たちもまた位置づけられているのだ(大人たちもそうだ)。子供たちを対象にしたマーケティングで儲ける企業=大人たちとの共犯関係の中で、日々子供たちは生きている。ゲーム産業などは子供たちを媒体に、彼らの時間や親のお金を消費させて利益を上げる。

 学力低下は理性の低下でもあろう。娯楽を適度な摂取にとどめるか、あるいは禁欲的に退けることで、家での自主学習は成立する。日本の高校生の家での学習時間は、先進国の中で極端に低い。塾や予備校は、親にとっての子供に対するいわば暴力装置である。宿題は強制的にチェックされるし、塾は勉強することに特化された環境だからだ。塾を自身のためにしっかりと功利的に活用する子供もいるし、その一方でなんとなく通う子供もいる。塾というシステムなしで、自学自習できる子供たちはもはやほとんどいないのではないか。家に娯楽は多すぎる。

 ここに、子供に勉強させて将来金を稼げるようにしたい親たちと、ビジネスチャンスをとらえたい塾の利害は一致し同盟が結ばれる。自分の意思で主体的に行動する美徳を子供たちが持たないことにより、教育業界は成立し繁栄する。自立した人間に育てるよりも、塾というシステムに放り込むことで、親たちは子供の自立を塾にアウトソーシングしている。同様の手段として、面倒見のよい私立学校=勉強のための拘束時間の長い、厳しい進学校の需要も存在している。こうして、日本の家計に占める教育費の割合は高まるのだ。ここでも子供は媒介として、システムの中に位置づけられている。

 子供の学力が低いほうが望ましいのは、教育業界だけではない。すぐ誘惑に負ける、理性的ではない子供たち=未来の大人たちは、企業の顧客だからだ。有形無形の商品の購入の欲望こそが、資本主義社会では求められる。理性的で禁欲的で節制する人々であふれたら、物は売れない。この意味で、主体的に自由意志に基づいて行動する人間が教育によって生産されるよりは、なんとなく行動し、たやすく誘惑に負ける人間が多数派であることが、現代の日本社会を成り立たせている。このことは、ある種の社会的要請である。

 テレビによって1億総白痴化するという言説が流行したのは1950年代後半であり、半世紀前である。今やテレビ以外の娯楽が満ち溢れ、1億総白痴化を超えた時代に私たちは生きている。日本の社会経済の中に、システムの中に組み入れられている子供たちの志向は、時代によって変化している。子供たち自身の問題だけでなく、社会経済のシステムにおける子供たちの立ち位置と役割、機能について再考の余地がある。

 現代の子供たちは、勉強しようという意思を持つことも、実践することも困難な状態に陥っている。少なくとも前の世代の子供たちよりは相対的に、学校に関係することに時間とエネルギーを注ぎにくい条件下にある。したがって、学力低下ないし少なくとも二極化は必然の成り行きであり、そのような傾向は今後も継続するであろう。