馬車郎の私邸

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「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」第1巻、伏見つかさ、電撃文庫

半年以上前、一緒に本屋を回っていた友人が「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」ってすごいタイトルだよね、と言ったことがあった。この反語的否認のレトリックは、見た者に興味関心を抱かせずにはいられない。AIDMAの法則といって、消費者がある商品を知って購入に至るまでには5段階があるそうだ。 1. Attention(注意)⇒ 2. Interest(関心)⇒ 3. Desire(欲求)⇒ 4. Memory(記憶)⇒ 5. Action(行動)といった具合である。「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」というタイトルを見た瞬間、どういうことなの!?と反射的に思ってしまう。注意関心を喚起し記憶に残る不思議なタイトルとして秀逸だ。

一番下にあるように、あらすじはなかなかとんでもない話だ。よくこんな話を思いついたものだという気がするが、単純に読んでみるとコミカルで面白い。最後の、妹の趣味を容認せよと迫る京介と、正論と良識で反駁する親父の論戦は見ごたえがあった。

それにしてもこの兄貴はたいへんに自己犠牲の精神に満ちた漢である。ネタばれにはなるが、この1節には笑った。

「……ほ、ほう。……お、おま、おまえは妹の部屋で、妹のパソコンを使って、妹にいかがわしいことをするゲームをやっていたというんだな?」
「超面白かったぜ!文句あっか!」

京介は、妹をかばうために、ここまですさまじい嘘を吐くのである。キリストは全人類の罪を贖ったそうだが、同じ状況に置かれたら、はたしてキリストでもここまでの自己犠牲の愛を発揮できたかどうか?
なぜだかわからないが、掛け値なしに、かっこいい兄貴である。

ただし、話のコミカルさとは裏腹に、意外にガチな問題をこの小説は孕んでいるのではなかろうか。実の妹が、妹萌えのエロゲーを大好きだったとは、ぶっとんだ展開としては確かに面白い。とはいえ、現実問題としてエロゲーの存在は、好感をもたれるようなものとは言い難く、主人公の京介の対応の寛容さと冷静さは珍しいといえよう。

基本的に、この種のものは「存在するのだが、存在しないことにしよう」という暗黙の了解がある。一般的に言及することがためらわれるorタブーである存在である。寅さんに言わせれば「それを言っちゃあ、おしめえよ。」というやつだ。

だが、しかしエロゲーは厳然として存在する。この小説とアニメにエロゲーが登場してしまうことは、「ないものとしてすませる」ことがそろそろ出来なくなってしまった頃合いになったことを示唆している。東京都の規制騒ぎは記憶に新しい。同じように腐女子の存在も、昔からいたのだろうがここ数年顕在化の度合いは激しく、もはやこの層を無視したマーケティングや作品作りは出来なくなってしまったと言っても過言ではない。自嘲と自重から生まれたこの名称も、その存在は隠れなきものとなっている。こうして、エロゲや腐女子ははっきりとプレゼンスを増している。

見る見ないに関わらず、見えるようになってしまったかつてのアングラの世界が存在感を増すにつれて、こうしたものにどう対処するかに、日本人の文明の程度が試されているような気がするのは、思いすごしだろうか。この10年で「キモい」「ウザい」という言葉が使われる頻度は高くなっている。この直截的に嫌悪感を表明する便利だがあまりにも安易な言葉が、気軽に使われるようになったことは日本人の寛容の程度が、著しく低下していることを暗示している。

だから、エロゲや腐女子に対する態度としては、短絡的に嫌悪感を表明する野蛮人の程度ではなく、他者の心を慮る文明人の寛容な態度で臨むべきであろうと思う。もちろん、私は主に品性という点で、たとえばエロゲとは相容れないし、心の奥底では軽蔑と嫌悪の情があることは否定しえない。だからといって、他者の自由を批難、あるいは罵倒してはいけないとは思う。ヴォルテールが言った「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」のとおりである。

また、アダム・スミスが「道徳感情論」や「国富論」で述べたことがらもこの問題を考えるには示唆的だ。個人は社会から独立した存在ではなく、他人に「同感」し、他人に「同感」されることを求める社会的存在としての個人である。そして、その個人が胸中の「公平な観察者」の是認という制約条件のもとで、経済的利益を最大限追求することにより、社会全体の利益が達成されるのだ。

さらに参考になりそうな事例を挙げるなら、かつてユリウス・カエサルは内戦で降伏した政敵を皆許したことも、先例になりうる。彼は、徹底した「寛容(クレメンティア)」の精神で自らの敵に接したのだ。
「わたしが自由にした人びとが再びわたしに剣を向けることになるとしても、そのようなことには心を煩わせたくない。何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは、自分の考えに忠実に生きることである。だから他の人もそうあって当然と思っている」

ならば、我々も、今までは顕在化しなかったが対処を迫られるような存在に対して、寛容に接しようではないか。作中の京介の自己犠牲と積極的理解とは言わないまでも、彼と桐乃の親父のように、消極的容認と事態の静観でよい。他者への寛容こそが、社会の基盤であり、公共に反しない限りの自由を個人がそれぞれ享受する源なのだ。




波乱のない普通の人生を志向する男子高校生・高坂京介は、数年前から中学生の妹・高坂桐乃から挨拶もされずまるで汚物を見るかのように蔑んだ視線を送られるだけの冷え切った関係になっていた。京介自身もまた非凡な才能に溢れる生意気な妹を嫌っており、そんな状態がこれからもずっと続くかに思われていた。

ところがある日、京介は自分の家の玄関で、高坂家では自分も含めて誰も見そうに無い魔法少女アニメ『星くず☆うぃっちメルル』のDVDケースが落ちているのを発見する。しかも、そのDVDケースには『メルル』のDVDでなくアダルトゲーム『妹と恋しよっ♪』が入っていた。京介は夕食の卓を囲みながら両親に『メルル』の話題をそれとなく振ってみるが両親、特に警察官である父親はオタクに対する偏見が非常に強く否定的な反応が返って来るのみであった。ただ一人あからさまに不審な反応を返したのは、持ち主としては最もありそうにないと思えた妹の桐乃であった。

その後ややあってケースの持ち主が桐乃であることを確信するに至った京介は、詳しいことは問い詰めずにDVDケースとその中身を桐乃に返す。しかしその後のある晩、これまで挨拶もろくに交わさなかった桐乃が突如として「人生相談がある」と言いながら京介の部屋に押しかけて来て、萌えアニメや「妹萌え」シチュエーションの美少女ゲームがどうしようも無く好きで堪らないが誰にもそのことを打ち明けられず困っていたことをカミングアウトされてしまう。京介は内心ドン引きしつつも、苦手な妹を適当にあしらうつもりで、彼女の趣味に理解を示すそぶりを装い、秘密は守るし困ったことがあればできる範囲で協力するという空約束をする。そして厄介ごとを他人に押し付けるためにも、インターネットのSNSへの入会を勧め、妹の趣味に理解を示してくれるような「裏」の友人探しを手伝うことにする。

しかし京介は次第に桐乃の趣味にかける真剣さや、痛々しいまでの情熱を知るようになり、少しずつ己の考えを改めるようになる。口では妹のことを毛嫌いし、表面的には不仲な関係を継続しつつも、時には身体を張り恥をかなぐり捨ててでも妹の趣味を守ろうと奮闘するようになり、無関心だった桐乃との関係性を次第に変化させていく。また京介自身も、SNSのオフ会を通じて「裏」の友人となった黒猫や沙織・バジーナたちとの交友関係や、妹が持ち込んだ大小さまざまな事件、自身のゲーム研究会への入部といった出来事を通して、今まで幼馴染である田村麻奈実との居心地のいい関係に甘んじていた自分を取り巻く環境の変化を実感していく。