馬車郎の私邸

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「消費税増税について」

現行5%の消費税率を2014年4月に8%、2015年4月に10%に引き上げる法案は成立の見通しということだけれども、オウムの犯人やら、小沢さんの問題やら、原発再稼働やら、それに何より、いちいち蒸し返される欧州問題ということで、今ひとつ注目されていないように見受けられる。

消費税については、ミクロ、個人の観点からは、日々の消費にのしかかる重荷なのだから、もちろん不満がある。しかし、マクロの観点から見るなら、消費税増税は、かねてから必要とされてきたことであり、先送りにされ続けてきた問題だ。政治というのは、所与の制約条件の中で最適解を見つけ、実行に移すことである。その中で、消費税の増税にやっとのことで踏み切る見込みがついたこと、それ自体は評価されるべきだ。

しかしながら、3つの点で不満がある。やり方、タイミング、コミットメントの3つである。以下に順に述べる。

第1に、やり方については、中途半端である。このことについては、私の言いたいことをマキャベリさんが代弁してくれるであろう。すなわち、やるなら、「加害行為は一気にやってしまえ。長期に渡って相手を被害状態に置かないように配慮すれば、それだけ相手を怒らせないですむ。これにひきかえ、恩恵を与える場合は、たっぷり相手に味わってもらうように小出しに与えよ。」ということだ。

今回の消費税増税のやり方は、二重の意味で筋が悪いのである。まず、税率を上げる水準が中途半端である。欧米の付加価値税の税率は、軒並み20%程度である(ただし、インボイスなどの仕組みが整ってるので、食料品などの税率は軽減されている)から、10%では上げ幅があまりにも小さい。とはいえ、そもそもの話、野口悠紀雄教授の著書によれば、5%引き上げの効果はわずか2年で失われ、財政を健全化するためには消費税率を30%にしなければならないのであるが……

次に、段階的な引き上げというのは、、マキャベリの言うことを参照するなら、良い施策だとはいえない。すなわち、性悪説に基づくならば、悪事は、二段階に分けるのではなく、一気にやってしまったほうが、相対的に大衆に憎まれる機会は少なくてすむのである。1度奪われるのと、2度も奪われたという感覚は、どちらのほうが大衆にとって痛みを感じるだろうか。野田首相は上記と、以下のマキャベリの言葉を心して聞いておくべきである。
「人は、自分の持ち物が奪われたときよりも、父親が死んだことのほうを、早く忘れるものである。」
「人間というものは、自分自身の持ち物と名誉さえ奪われなければ、意外と不満なく生きてきたのである。」

第2に、タイミングが悪いということである。やるなら、もっと早くやらなければ間に合わなかった。「衆愚の選択は常に増税を忌避し、財政の悪化は雪だるまのごとく膨らんできたこと」という記事に書いたとおり、ことごとく消費増税は、阻止されてきたのである。しかし、このことは日本において民主主義が機能していることの最大の証である。なぜなら、社会保障費によって利益(あるいは将来の利益)を得る世代が最も人数が多い以上、そうした人々によって選ばれた代議士がしっかり利害を代弁してきたのは、当然のことだからである。

財政悪化の主たる原因は、言うまでもなく社会保障費の増大である。本来ならそれに見合った対価を、税という形で支払わなくてはならない。だが、恩恵は受けても、できることなら自分の懐を痛めたくないと思うのは当然のことである。また、政治家たちがそうした人々におもねるのも、至極当然のことである。選挙に当選しなければ、政治家は政治家でいられないからである。互いに、合理的に行動しているにすぎない。

こうして、社会保障費の恩恵を受ける世代と政治家の間に、暗黙の紳士協定が続く。その結果、財政破綻というチキンレースのおまけつきの"最大多数の最大幸福"が実現されてきたのである。「増税論議と老人主権」という記事に以前書いたとおり、この国は国民主権ではないのである。日本の財政支出の問題は、民主主義ではもはや解決できない域に来ているのではにかと、危惧している。

第3に、コミットメントという点で、まるで全然!税と社会保障の一体改革と言うには程遠いんだよねぇ!ということである。民主党は与党であることを生かせておらず、消費税増税にかぎらず、あらゆる重要な政策において、足並みが揃った試しがない。民主党は、政策の方向性の一致によって凝集した人々(party)と言うには無理がある。言うなれば、自民党に勝たんがための単なる選挙互助組合である。これまでの迷走ぶりはあえてまたここに書くまでもないだろう。政治家たちにとって、民主党の存在意義は、日本の政治上の問題を解決することではなく、選挙に当選し、議席の過半を握って、与党でいることである。つまり、手段が目的化しているのである。このような集団に、財政の問題が解決できるはずもない。

このようなコミットメントの無さは、税と社会保障の一体改革という言葉の空虚さが象徴している。問題の原因となっていることを解決することが先決であるならば、増税よりも、歳出削減を先に手がけることが本筋のはずだ。だが、社会保障の改革とやらについては、あまりにも声が小さくて、聞こえてこないようだ。それは当然である。社会保障費の大胆な削減がいかに必要であろうとも、それを積極的に推進できる政治家はいない。そのようなことを主張する政治家は、(社会保障費による恩恵を受ける人の数を考えるなら)選挙に勝てないからである。したがって、平等に1人1票が与えられる限り、今現在の世代間不平等の是正は与党によって実現されることはない。

以上のように、消費税増税の問題については、アポリア、すなわち行き詰まりの絶望という結論しか、私には導き出せない。しかし、その中で、野田首相に対して、ほんのささやかな賞賛はできる。マックス・ヴェーバーが『職業としての政治』で以下のように述べている。批判には振り回されることなく、瑣末な事柄に拘泥することなく、「それにもかかわらず(Dennoch!)」と言える人間だけが、政治家たる資格を有している。だとすれば、野田首相はちょっとだけ「それにもかかわらず(Dennoch!)」と言う気概を見せてくれたのだと、そう思いたい。それにしても、マキャベリの「君主論」は、早稲田の政治経済学部や松下政経塾では必読ではなかったのかと、戸山女子大学のOBとして、小言を言いつつ、本稿を締めくくるとしよう。