馬車郎の私邸

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【映画】 「幻影士アイゼンハイム」を見て、見ること、考えることを考える。

金曜ロードショーでやっているようなポピュラーな大衆映画しか観ない私に、妻が「幻影士アイゼンハイム」という作品を見せてくれた。ラブロマンスとサスペンスとが少ない登場人物ながらも簡潔な筋立てのもと19世紀末のウィーンを舞台に描かれるさまは実に優美な作風だ。
あらすじは以下の通り。
家具職人の息子エドゥアルドと公爵令嬢ソフィは幼い頃、身分の隔たりを越えて恋に落ちた。だが、大人たちによって引き離され、少年エドゥアルドは村を去った。

遠く東洋まで旅をしたエドゥアルドは、以前から熱中していた奇術の技を磨き、成人後は大人気の幻影師アイゼンハイムとして知られるようになった。

ウィーンでの公演中、ソフィと再会するアイゼンハイム。オーストリア皇太子レオポルドと婚約間近とされているソフィだが、過去に女友達への暴行と殺害の疑いがあり、父である皇帝の追い落としを謀るような傲慢で残忍な皇太子を嫌っていた。密かに逢瀬を重ね、互いの変わらぬ愛を確かめ合い、駆け落ちを計画するアイゼンハイムとソフィ。だが、ソフィから婚約しないことを告げられた皇太子は、剣を手にソフィの後を追った。

翌日、遺体となって発見されるソフィ。犯人が逮捕されても、町中が皇太子の仕業だと噂する。そんな中、アイゼンハイムは幽霊を呼び出す新作公演を始めた。皇太子からアイゼンハイムの監視と、追い詰めることを命じられたウール警部は、アイゼンハイムに好意を持つがゆえに事態を打開しようと奇術のトリックを探るうちに、徐々にソフィ殺害の真相に近づいて行ってしまうのだった。
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監督・脚本のニール・バーガーは原作小説を基に映像美の世界を作り上げ、それを見せることで視聴者に、見えていることと起きていること、見えないことを考えさせるように迫る。筋書きはシンプルで、前半では幻影師アイゼンハイム(演: エドワード・ノートン/阪口周平)と公爵令嬢ソフィ(演:ジェシカ・ビール/世戸さおり)、皇太子レオポルド(演:ルーファス・シーウェル/根本泰彦)の三角関係を描きつつ、後半ではレオポルドのソフィ殺害をめぐる疑惑とアイゼンハイムの奇術をめぐるスリリングな展開へと移行する。視聴者は、魅力的な奇術を次々と披露するアイゼンハイムと自らが仕える皇太子レオポルドとの板ばさみとなる、ウール警部 (演:ポール・ジアマッティ/宗矢樹頼)の目を通して、物語の行方を見守り推理をすることとなる。

タイトルの通り見ている物語と映像そのものがまさしく"幻影"そのものであり、実際起きていることと眼前に見えていることを視聴者に絶えず考えさせる構造になっている。すなわち劇中の人物は現実と奇術のトリックについて、視聴者は実写とCG合成という虚実に思いをめぐらせるのである。

ここで、モンテーニュの「エセー」から「レーモン・スボン弁護」の一説を引用して、私たちが「見ること」と「考えること」との関係を考えてみよう。
われわれの概念は外界の事物にぴったり照応しているわけではなく、感覚を介して心に宿るものだ。また、その感覚は外界の事物をそのまま掴むのではなく、たんに感覚の印象から来るのであって、この印象と事物はそれぞれ別のものである。それゆえ映像によって判断する人は、事物とは別のもので判断している。するとその人は感覚の印象は外界の事物を類似によって精神に伝えるのだと言うかもしれないが。精神と判断力は、外界の事物とは何の交渉も持たないのだから、どうしてその類似を保障することができるだろうか。

ざっくり一言で言えば、「見ること」と「考えること」は一致しないのである。このことから生じる「見たいものを見る」という人間の本質をすでに2000年前に看破し警句を発した古代人がいた。そう、ユリウス・カエサルである。すなわち「人間とは噂の奴隷であり、しかもそれを、自分で望ましいと思う色をつけた形で信じてしまう。」「人は喜んで自己の望むものを信じるものだ。」という指摘である。

今私たちが毎日見ているニュースはフランスのパリで起きたテロの話題ばかりである。テロの衝撃的な映像のニュースを見て「ああ、怖い」と思うだけでは、考えることにたどり着かず、それはただの脊髄反射である。見えることだけではなく、見えないことについても考えることで、脊髄反射という動物としての反応を乗り越えて、感覚に付加して人間としての理性による思考へと至るのである。この場合はニュースが映像で報道していること、報道していないことに思考をめぐらせることで見えてくることもまたあるのではないだろうか。たとえば、イスラム国が実行支配している地域のイラクやシリアにおいてテロや戦闘によってフランスよりもはるかの多くの死者が出ている事実については軽視され日本のニュースにおいてはほとんど報道されない。その理由は、テレビや新聞が想定する顧客層が先進国の都市住民であるために、同じ先進国の都市住民であるパリ市民から見たテロとという観点で見ることになるからである。そうした視点を離れて世界地図から中東・ヨーロッパを眺めると、イスラム国の無法による中東の混乱とEU圏における継続的なイスラム教徒の移民の増加と流入という問題を考えることとなる。さらには、20世紀のフランスやイギリスの中東政策という遠因に考えを巡らせることになるであろう。

投資の世界においても、ニュースへの接し方は重要である。「市場参加者はテロのニュースにどう接するべきか?」という記事にある通り投資の世界では「人は、いま眼前に起きている事件に対し(これは過去に無い一大事だ!)と過剰反応する傾向があり、逆に長期トレンドの重要さは過小評価する傾向がある」。のだから。市場のニュースとして出てきた過去の企業業績や経済指標に過敏に反応するのも考えものである。「慌てるな、そこへ映っているのはキミ自身の影だよ。8月に「ぱたっ」と売上トレンドが止まったというノードストロームのコメントに、ウォール街が大騒ぎ。」にある通り、それはいわばバックミラーを見ながら運転するようなものだからである。今見えている現実を踏まえて未来を考えるならば、見えたものに脊髄反射でしか反応しない人々よりもより良いことが起きるであろう。

カエサルは「概して人は、見えることについて悩むよりも、見えないことについて多く悩むものだ。」とも述べている。具体的に見えるものが全てではない。だからといって見えないことを抽象的に考え続けで袋小路に入ってしまうのも考えものである。マルクス・アウレリウスが「自省録」に書きつけた言葉で考えてみよう。「君がなにか外的の理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。」し、「物事に対して腹を立てるのは無益なことだ。なぜなら物事のほうではそんなことにおかまいなしなのだから」「事物はそれ自体いかなるものであるか、その素材、原因、目的に分析してみるべきである。」しかして、「今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰くこれは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。」と考えて、眼前の厳しい現実に立ち向かおうではないか。