馬車郎の私邸

漫画、アニメ、ゲーム、音楽、将棋、プロレス観戦記など「趣味に係るエッセイ・感想・レビュー記事」をお届けします!ある市場関係者のWeb上の私邸

「モンテ・クリスト伯」第7巻、アレクサンドル・デュマ、岩波文庫

約3000ページにわたる壮大な復讐の物語がついに完結!作者の筆力も熱を帯びているが、復讐劇の最終章は緩急がついた描写で、復讐を強靭な意志でやり遂げるモンテ・クリスト伯爵が見せた心の迷いを含めてバランス良く描いている。第1巻から読んでいると、積み上げてきた伏線が次々と収斂していき、また、多様な登場人物の心情が絡み合う物語が終わりに向かっていく様子は、名残惜しくもそれでいてすぐ先を読みたくなる二律背反の複雑な気持ちになる…けれども、いよいよだ!という思いが、ページをめくる手を早めるのだ。
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村 第6巻で、自分を陥れて自分の許嫁を奪った恋敵モルセール伯爵ことフェルナン・モンデゴを自殺に追い込んだモンテ・クリスト伯爵。次なる標的は検事総長ヴィルフォールと銀行家ダングラールだ。

ここまで長々と描かれてきたヴィルフォール家で次々と起こる毒殺事件。ついに愛娘ヴァランティーヌまでもが死んでしまうと、ここに至ってヴィルフォールは検事総長として、妻を糾弾する。この場面でのヴィルフォールは主人公の敵であることを忘れてしまうくらいかっこいい。しかし、アンドレア・カヴァルカンティことベネデットの裁判に赴くヴィルフォールには、(モンテ・クリスト伯が仕組んだ)恐るべき運命が待っていた。

第6巻でダングラールの娘ユージェニーと、アンドレア・カヴァルカンティの結婚式の最中に、アンドレア・カヴァルカンティがカドルッスを殺した男で元徒刑囚ベネデットであることを、モンテ・クリスト伯爵はダングラールとの会話の流れに乗じて暴露してしまった。パリ中の注目を浴びるベネデットの裁判がついに始まるのだが、なんとここで、ベネデットは裁判の中で、自らの父は検事総長ヴィルフォールその人であると証言。まさしく第4巻以来の伏線がすべて、ここに収斂した!ヴィルフォールの家庭は崩壊し、彼自身も劇的な形で社会的に抹殺されてしまった。彼が屋敷に帰ると、ブゾーニ司祭がその正体を現す。モンテ・クリスト伯が自らはエドモン・ダンテスであると明かしていくシーンは、まさにクライマックスにふさわしい圧倒的な筆力。そして、ヴィルフォールが狂っていく様子がなんともいえない。7巻のハイライトは全巻通してのハイライトかもしれない。
「ここにおいででしたか!」とヴィルフォールは言った。「まるで、いつもきまって死神のお供をしておいでのようですな。」
ブゾーニ司祭は身を起こした。司祭は、ヴィルフォールの顔に見られる面変り、その目の中の凶暴な輝きを見て、重罪裁判所での出来事が終わったのを見てとった。ないし、それを見てとったように思った。司祭は、それからののちのことについて、何も知らずにいたのだった。
「あの折は、令嬢の御遺骸にお祈りをしようと思って参ったのでした!」と、ブゾーニ司祭は答えた。
「で、今日のところは、なにをしにお見えになりました?」
「あなたが、これでわたしに対する負債をじゅうぶんお支払になれたこと、そして、これからは、神さまも、わたしと同じく、御満足くださるようにお祈りしようと思っていることをお耳に入れにきたのでした。」
「おお!」と、ヴィルフォールは額に恐怖の色をあらわし、あとしざりしながら言った。「そのお声、それはブゾーニ司祭のお声ではないようだが!」
「そのとおり。」
司祭は、坊主頭のかつらを引きむしると、はげしく頭を振った。と、おさえつけられていた長い髪の毛はばらりと肩の上に落ちかかり、彼の凛々しい顔のまわりに垂れた。
「おお、モンテ・クリスト伯爵!」と、狂ったような目でヴィルフォールが叫んだ。
「検事総長、まだですぞ。もっとよく、もっと昔のことを考えてごらんにならなければなりませんぞ。」
「その声!その声!その声を。どこではじめて聞いたのだったか!?」
「あなたはそれを、今を去る二十三年前、あなたがサン・メラン嬢と結婚された日に、マルセイユではじめてお聞きになったはずなのです。記録を調べてごらんなさい。」
「ブゾーニ司祭でもない?モンテ・クリスト伯爵でもない?おお、それでは、あのかくれた、執念深い、不倶戴天のわたしの敵というわけなのだな!わたしは、マルセイユで、あなたになにかけしからんことでもしたのでしたか?」
「そのとおり。まさにそのとおり。」と、伯爵は広い胸の上に腕を組みながら言った。「お考えになってごらんください!お考えになってごらんください!」
「だが、このわたしが、君にいったいなにをしたというのだ?」と、ヴィルフォールが叫んだ。彼の心は、理性と錯乱が入り混じる境、もはや夢でもなく、といってまだうつつのものでもない靄(もや)のなかをさまよい始めた。「このわたしが、君にいったいなにをしたというのだ?さ、それを聞こう!」
「あなたは、わたしに、緩慢な、きわめて非道な死刑宣告をおくだしだった。あなたはわたしの父をお殺しだった。あなたは、わたしの自由とともにわたしの愛をもお奪いだった。そして、愛とともに幸福までも!」
「そういう君は誰だ?一体君は誰なのだ?」
「このわたしは、あなたが、シャトー・ディフの土牢に埋めた不幸な男の亡霊なのだ。その亡霊はついに牢から出ることができ、神は、その亡霊にモンテ・クリスト伯の仮面をかぶらせたもうた。そして、いままで、君に気付かれないようにと、ダイヤモンドと黄金でつつみかくしてくださったのだ。」
「おお、わかった、わかった!」と、検事総長が叫んだ。「そういう君は……」
「そうだ、エドモン・ダンテスだ!」
「エドモン・ダンテス!」と、検事総長は、伯爵の手首をつかみながら叫んだ。「そうか、ならこっちに来てもらおう!」
彼は、伯爵を、階段を通って引っ張っていった。」驚いた伯爵は、自分がどこに連れていかれるかもわからず、ただなにか新しい出来事が起こったことを想像しながら、彼のあとからついていった。
「これを見ろ、エドモン・ダンテス。」と、彼は、妻と子供の死体をしめしながら言った。「さあ、見てもらおう。これで胸がおさまったか?……」
そのおそろしい光景を目にして、モンテ・クリスト伯は、さっと顔色を変えた。そして、自分として、復讐の権利をはるかにふみ越えてしまったこと、自分として、もはや、「神われに与したまい、神われとともにいます。」と言うことのできなくなってしまったことをさとった。
言いあらわしようのないほどの苦悩におそわれた彼は、子供の死体の上にガバと身を伏せ、そのまぶたを開けさせ、脈をとってみた。つづいて、子供を抱きかかえてヴァランティーヌの部屋に駆け込むと、ドアにしっかりと鍵をかけてしまった……
「おお、子供を!」と、ヴィルフォールは叫んだ。「子供の死骸をさらっていった!おお、畜生!」
彼はモンテ・クリスト伯のあとを追おうとした。だが、まるで夢のなかでとおなじように、足には根が生えてしまいでもしたような感じだった。その目は、眼窩が張り裂けるほど膨れ上がり、胸の上にまげた指は、だんだん深くはまっていって、ついには血が出て、爪を赤く染めるにいたった。湧きかえる精気に、こめかみの血管はふくれあがり、精気は、狭すぎるほどの彼の頭蓋を突き上げて、たぎりたつ焔のなかにその脳髄をおぼらしてしまった。こうして、何分かのあいだ、彼はじっと身動きもできない状態を続けていた。そして、ついにおそろしい狂気が訪れた。
彼は、ひと声高く叫んだかと思うと、カラカラと笑い続けていた。それから、あわただしく階段を下りていった。
十五分ばかりして、ヴァランティーヌの部屋の戸があいて、モンテ・クリスト伯が姿を現した。額は青ざめ、胸はきつくしめあげられて、いつもあれほど落ち着きと気品とを見せていた彼の顔は、苦悩のために、すっかり変わってしまっていた。彼は腕の中に、子供を御かかえていた。彼は、あらゆる手当てをこころみたが、ついに生き返らせることができなかった。彼は、片膝をつき、おごそかに、子供の頭を母の胸にもたせかけるようにして、そのそばに寝かせてやった。
ふたたび立ち上がった彼は、部屋を出た。そして、階段で出会った召使の一人に、「ヴィルフォールさんはどちらにおいでかな?」と、たずねた。
召使は何も言わずに、庭のほうを指してみせた。
モンテ・クリスト伯は、石段をおり、指されたほうへ向かって歩いていった。すると、召使たちにとりかこまれながら、鋤を手にして、狂気のように土を掘り返しているヴィルフォールの姿が目にはいった。
「ここでもない。」と、ヴィルフォールは言っていた。「ここでもない。」
そして、さらに向こうのほうを掘り続けていた。
モンテ・クリスト伯は、そのそばに歩み寄って低い声で、
「あなたは、」とへりくだった調子で話しかけた。「あなたは御令息をおなくしでした。しかし……」
ヴィルフォールは、そう言う伯爵の言葉をさえぎった。聞く気もなければ、なにも聞こえないというようだった。
「おお!きっと見つけてみせますぞ。」と、彼は言った。「いくらいないとおっしゃっても、最後の審判の日まで探すことになろうとも、きっと見つけてみせますぞ。」
モンテ・クリスト伯は慄然としてあとへさがった。
「おお!」と、彼は言った。「気がちがったのだ!」
そして、わが身のうえに、この呪われた家の壁がごっそり崩れかかってくるのを恐れるとでもいったように、急いで街の方へ飛び出していった彼は、はじめて、自分にはたしてあれほどのことをする権利があったかどうか、一抹の疑いを抱いてみたのだった。
「そうだ!もう、これだけでじゅうぶんなのだ。」と、彼は言った。「最後のものだけは助けなければ!」


狂気の底に落ち込んでいくヴィルフォールの描写は、今までの経緯を積み上げてきたからこそ、衝撃的だ。同様に、苦難に耐えて、慎重に周到に冷静に復讐への布石をモンテ・クリスト伯爵がしてきたからこそ、自身が復讐の権利を踏み越えてしまったことを自覚して心に迷いを抱く場面は印象深い。

元許嫁のメルセデスとの4度目の会話は、お互いにもう二度と会わないと暗に心に決めながら喋っていてせつない。そして、モンテ・クリスト伯は自身の復讐に懐疑を抱いたことから、自身が14年間とらわれていたシャトー・ディフの牢獄を訪問する。モンテ・クリスト伯ならずとも、読者にとってもこの訪問はとても感慨深い。というのも、第1巻第2巻で捕囚の身を深く描写したからであり、あの英知あふれるファリア司祭のことを思い出すと、伯爵同様読者もたまらなく懐かしくなってくる。復讐の意思が間違っていなかったことを再確認した、モンテ・クリスト伯は最後の復讐を敢行する。

ダングラールの没落では、モンテ・クリスト伯がダングラールの500万フランの手形を持っていってしまうシーンが面白かった。そして伯爵は、面目を潰され家庭も崩壊し自身の金策の道を絶たれて破産したダングラールを拉致させて監禁し、飢え死に寸前まで追い込む。先の復讐に懲りて、命を取るまではせずダングラールを解放したのだが、彼の髪は真っ白になってしまっていた。そもそも3人の復讐相手の中で一番下卑ていた奴だけに、こいつだけ生き残るのはどうもな…という気はする。モンテ・クリスト伯こと、エドモン・ダンテスを無実の罪に陥れた3人の中で、動機を考えると、ヴィルフォールは政治的保身のため、フェルナンは恋敵だからといった具合でまだわからんでもない。それにこの2人は結果的にダングラールの企みに共謀してしまったわけだ。だが、そもそもダングラールがエドモンの出世をねたんで一連の計略をたくらんだのだということを思うとどうにも釈然としないが、結局、伯爵の考え方の変化が彼の命を救ってしまった。といっても、十分に悲惨な末路なのだが。

さて、ついにこの長い小説にも終幕が訪れる。ヴァランティーヌの死に悲しみ自殺をしようとする、恩人の息子マクシミリヤン・モレルに対して、モンテ・クリスト伯は、いよいよエドモン・ダンテスあるいは船乗りシンドバットであることを明かす。117章、この小説の最後の章で、マクシミリヤン・モレルがはたして、幸福を与えるに値するほど不幸な人間を試す。そしてそのあとで夢のように、読者が待ち望んだ展開、つまり死んだと思われていたヴァランティーヌとの感動的再会が待ち受ける。

財産をマクシミリヤンに譲渡し、彼の結婚式の用意も整えたモンテ・クリスト伯はエデと一緒に旅立ってしまう。それはマクシミリヤンとヴァランティーヌだけではなく、この長い物語を読んできた読者にとってもモンテ・クリスト伯との別れの時である。だから、伯爵が最後に残した手紙のメッセージは読者にも向けられたものである。
手紙の後半部分を引用すると、
マクシミリヤンさん、わたしはあなたに、わたしのあなたへの行動の真諦をお知らせしましょう。それは、この世には、幸福もあり不幸もあり、ただ在るものは、一つの状態と他の状態との比較に過ぎないということなのです。きわめて大きな不幸を経験したもののみ、きわめて大きな幸福を感じることができるのです。マクシミリヤンさん、生きることのいかに楽しいかを知るためには、1度、死を思ってみることが大切です。では、なつかしいお二方、どうか幸福にお暮らしください。そして、主が、人間に将来のことまでわかるようにさせてくださるであろうその日まで、人間の叡智はすべて次の言葉に尽きることをお忘れにならずに。

待て、しかして希望せよ!

                      あなたとの友なる、
                      エドモン・ダンテス
                      モンテ・クリスト伯爵

「この世には、幸福もあり不幸もあり、ただ在るものは、一つの状態と他の状態との比較に過ぎないということなのです。」という、伯爵が結論に至った、幸福観はなるほど!と思える。幸福は相対的なものであるということを看破している。

モンテーニュの幸福観に通じるところがある。
モンテーニュ「エセー」 1巻第14章「幸、不幸の味は大部分、われわれの考え方によること」要約に書いた中から抜粋すると、
「運命はわれわれに幸福も不幸も与えない。運命はただその素材と種子を提供するだけだ。われわれの心がそれを幸福にも、不幸にもする唯一の原因であり、支配者なのだ。単にものを見るだけではなく、いかに見るかということが大事である。」

そういえば、第1巻でファリア司祭がそらんじることができる本のリストの中にモンテーニュも入っていたから、モンテ・クリスト伯はこの時教わったことを敷衍したのであろう。

「ところで、それならば、人間に死を蔑視し苦痛に耐えよと教えるところのこれほどたくさんの所説のなかから、なぜわれわれはどれが自分の役に立つものを見出さないのか。また、他の人にそのことを納得させたこれほどたくさんの思想のうちから、なぜ各人は気質に合ったものを自分に用いないのか。」と、モンテーニュも言っている。ならば「この世には、幸福もあり不幸もあり、ただ在るものは、一つの状態と他の状態との比較に過ぎない」というモンテ・クリスト伯の幸福論を、役立てるのも一興だ。

そして、最後に。
この大長編小説の終わり方は次のように、たいへん美しいものだ。
「いつまたお会いできることやら?」と、涙を拭きながらマクシミリヤンが言った。
「あなた、」とヴァランティーヌが言った。「伯爵さまがおっしゃいましたわ。人間の智慧は、ただ二つの言葉にふくまれている、と。
待て、しかして希望せよ!
                                (完)