馬車郎の私邸

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「作品の長さが作る、登場人物の個性の"重み"について」

土曜朝7時半にテレビ東京系で再放送されている「遊戯王GX」を見ていて、思うところがあるので、一筆書いておこうと思う。一言で言ってしまえば、登場人物の個性の重厚さは、1クールアニメの比ではない、ということだ。ここまでは、昨日書いた「作品の長さが作る登場人物の個性の"厚み"について」という記事と同じ…というわけで、後編として、登場人物の個性の重厚さのうち、「作品の長さが作る登場人物の個性の"重み"について」書こうと思う。

1クール、あるいは2クールのアニメにおける登場人物の個性の変貌は、長い放映期間のそれと比べると、相対的に驚きが少ない。積み上げたものが違うからである。言い換えれば、累積された個性の重みが違うからである。たとえば、登場人物の裏切りが発生した時、ほんの数話しか一緒に戦っていないのなら、「あいつがまさか!」という感慨は持ちづらい。もちろん、短い作品では特にそうした人物にはきっちり伏線や暗示を付けておかないと、必然性を演出できないだけにしょうがない面もある。また、他には、登場人物の死についても、作品の長さによって、全く重さが違うものとなるであろう。

また、登場人物の感情や行動の動機付けの変化という点でも、12話程度の1クールアニメで描ける幅には限界があろう。登場人物の感情や行動の動機付けの変化は、長期間放映される作品では多段変化も可能だろうが、その一方で12話くらいの短さでは、描ける変化は2段階か、もしくは首尾一貫したものになるであろう。

もちろん、この点は悪い点とは言い切れず、逆にいい方に働くこともあるだろう。したがって、原作をアニメ化する際には、1クール、2クール、1年、それ以上と、どの期間が向いているか考えるべきであろう。ただし、現状では、出版社やレーベルによって、放映枠と放映期間が決まっているように思われる。たとえば、ジャンプ作品は人気が続く限りはとにかく何年でも。角川やライトノベル系統は、とりあえず深夜枠で1か2クールという具合だ。

さて、遊戯王GXのような放映期間の長い作品では、その長さゆえに登場人物の個性の変貌は、きわめて大きく、そして重い。たとえば典型的な例は、丸藤亮であろう。彼は1期において、デュエルアカデミア随一の強豪にして、"カイザー"と異名を取る、高潔な人格で知られたデュリストであった。しかし、プロリーグでエド・フェニックスに屈辱的な敗北を喫して以来、泥沼の連敗に陥り、ついには"最下位ザー"という野次を浴びるまでになってしまう。

ダメージを受けると電流が流れる方式の地下デュエルにまで落ちぶれた亮は、勝ちへの執着からそれまでのリスペクトの精神を捨て、突如邪悪な表情を浮かべ始め、狂気さえ秘めた冷酷な人格へと変わり果てた様子には、実弟の丸藤翔ならずとも、驚愕を禁じ得ないであろう。そして、地下デュエルの地獄から舞い戻り、"ヘルカイザー"という新たな異名を手に入れた亮は、師を打ち負かし禁断の裏サイバー流デッキに手を染め、友のフェイバリット・カード(正確にはその雛)を陵辱する非道な人物と化す。この変貌というのは、1期まるごと50話分を観てきたからこそ、登場人物にとっても、視聴者にとっても衝撃が大きいのである。

実弟の丸藤翔と再開を果たす亮は、デュエルにおいて、電撃を発する衝撃増幅装置を付けることを強要。受けて立つ翔。だが、この邂逅についても作品の長さが作ってきた重みが、作用する。翔は元来気弱で泣き虫であり、ジェネックス大会においてもゴミ箱に隠れて逃げ回っていたことさえあった。しかし、実の兄の変貌に思うところがあり、これまで雲の上の存在だった兄、そして変わり果てた兄に勝負を堂々と申し込んだのである。

この第95話は、作品中でも屈指の大激戦となり、翔は亮をあと1歩、いや、あと1枚のところ(次ターンにドローするカードはない)まで追い詰めるも、健闘及ばず、容赦のない電撃の餌食となる。ヘルカイザー亮が、最後に弟に向かって発した言葉「勝つのは俺だ。消えろ敗者は!」は、この人物の変わり果て様を実によく象徴していて趣深い。翔は薄れる意識の中、それでも兄をリスペクトする旨を呟き倒れ伏し、抱きとめた十代は「翔、お前こそカイザーだ!」という謎の名言(迷言)を叫ぶ。95話は、この話単品の面白さだけではなく、これまでの94話分を背負ってるからこそ、実に感慨深いのである。



丸藤翔の実の兄は丸藤亮であるが、翔は亮を「お兄さん」と呼ぶ。その一方で、翔は主人公の遊城十代を「アニキ」と呼び、慕っている。十代と翔は180話でずっと一緒。この二人が一緒にいないと、遊戯王GXを見てる気がしないくらいに、常に一緒なのである。翔の立ち位置は、主人公の親友というだけではなく、デュエルの実況・解説キャラの側面もあるだろうし、主要人物として作品内で彼固有の成長物語ももちろんある。また、翔の立ち位置の1つは、ヒロインというのもあるだろう。敵が十代をおびき出すためによくさらわれており、溶岩に落とされそうになったり、吸血鬼カミューラに人質にされたり、断崖絶壁の木の上に吊るされたり、他にも何回もあったように思う…

とにかく180話いつも一緒の十代と翔を見ているのは微笑ましいもので、私はとうとう十代×翔のアンソロ本に手を出してしまったくらいである。これは、3月末に友人と、池袋乙女ロードと中野ブロードウェイを行脚した際に手に入れたものだ。自分は同人誌というと国会コメディくらいしか所有していなかったが、友人がヘタリア同人誌の品定めをしている傍らで、遊戯王GXのコーナーを漁ったところ、幸運にも見つけたのであった。実に良いものだった。

話を戻すと、登場人物間の友情や愛情というのは、作品の長さで重さが違うということだ。問うまでもないだろうが、全13話の友情、全26話の友情、全180話の友情では、いったいどれが最も深く、重いであろうか。遊戯王GXの最後は、遊城十代と、前作の主人公武藤遊戯とのデュエルである。この時、遊戯が召喚したブラックマジシャン・ガールを見て、十代は「翔にも見せてやりたかったな…」と呟くのである。あまりにも、何気ない、さり気ない一言だ。しかし、最終回まで積み重ねた約180話の重みが、この台詞が友情・愛情から漏れた一言を裏付ける担保である。こんなどうでもいいくらいちっぽけな台詞でさえも、4年近い放映期間の作品の最後に発せられるならば、きわめて感慨深いものとなるのだ。

ここまで丸藤兄弟を中心に話を進めてきたが、もちろん、主人公の遊城十代もたいへん魅力的な人物である。無邪気で爽やかな、頼もしい好漢として描かれており、好印象をもたれる主人公の典型だろう。デュエルをとにかく楽しんでいるところも、カードゲームアニメの主人公として申し分ない。見ている方もすっきりした気分になる。2期のラスボス(テラ子安な顔芸)に対しても、「お前、このターンをどうやってしのごうかと一生懸命考えてるだろ。それって、デュエルを楽しんでるってことだろ?」と言う程である。地球と宇宙の命運がかかった戦いの最中だと言うのに、楽しみすぎにも程がある。

しかし、この主人公が2期分100話以上、「楽しいデュエルだったぜ!」と言い続けてきたからこそ、3期の鬱展開が実に映えるのである。(よくも悪くも)十代はヨハンを救いたいと思うあまり独断専行気味になり、いかに敵の離間策があったとはいえ、募っていく仲間たちの相互不信。仲間たちの命、自分の命がかかった戦いと、ヨハンの安否のあせりから、心の闇に堕ちてゆく十代。仲間たちが邪神経典の生贄にされた第136話がきわめて決定的だった。

「この命尽きるのなら…お前は俺の仲間の魂を弄んだ!お前だけは道連れにしてやるっ!!」
「みんなの魂を犠牲にして生まれた魔物など生ィィィかしておくかぁぁっっ!」」
「バトル中に破壊されたモンスターをお互い特殊召喚できる!俺はネオスだ、お前はレインを召喚しろ(命令形)!暗黒界の魔神レインは、何度倒しても俺の怒りは収まらない。ぶっ倒しても!、ぶっ倒しても!!、ぶっ倒しても!!!(大事なことなので3回言いました)」
「どうした!?早くしろ!!(命令形)」
「黙れ!ブロン」

この変わりようは並大抵のものではない。これまで100話以上、2年以上の放映期間で、一貫して明るい性格だった人物が、こうした台詞を吐くまでになるとは、その怒りの凄まじさと仲間を失った無念さがよく表れている。物語の蓄積があったからこそ、これらの一連の台詞は、あまりにも衝撃的なものとなるのだ。

翔と十代の関係も大きな変化を迎える。「どんな犠牲を払ってもヨハンを救い出すって、こういうことだったんだね…」「違うんだ!翔!」ブロンにより疑念を抱くよう呪法をかけられていることを、視聴者は知っていても悲しい誤解だ。一番の理解者翔にさえ誤解され、「俺の、何が悪いんだぁぁぁっ!」と絶叫する十代が哀れでならない。

こうして闇に堕ちていく十代を、翔は兄の助言により、"傍観者"として達観した視点から見つめ続ける。「アニキ」ではなく「十代」と呼び捨てているのもまた、寂しい。この時の、翔の視点は視聴者の視点のメタファーになっているのかもしれない。ほとんどの仲間が消えていってしまう中、翔はユベルと十代の戦いを最後まで見届け、ついには「疑」の呪法を自力で打ち砕く。こうして、翔が十代への信頼を再び取り戻すには、実に20話もかかった。

180話もあれば、登場人物の人間関係も変遷していく。そしてその変化は、それまで築きあげられてきた累積的な人物の個性と、描写されてきた人間関係の深さにより、重みを増していき、重大なものとなる。
人物の変貌、人間関係の変化、驚きの急展開は、ストーリーの濃さや長さをてこに、より効果を増していき、衝撃的なものになっていくのである。