馬車郎の私邸

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「コンスタンティウス2世とユリアヌス帝の時代について」

 コンスタンティヌス1世(在位:306年 - 337年というと、世界史を高校で習った人達にとっては、ああ、そんな名前の長い人を昔覚えたっけなと思う人は多いだろう。しかし、その後を継いだ4世紀半ばの皇帝2人については、あまり知られていないと思われる。そこで、コンスタンティウス2世(在位337年 - 361年)や、ユリアヌス(在位:355年11月6日 - 360年2月(副帝) - 363年6月26日(正帝))の2人の皇帝の時代がどのようなものだったか、ざっと概観してみよう。  コンスタンティヌス1世(在位306年~337年)は自分の後継者を、3人の実子、2人の甥に分割して統治させることを考えていたようだ。だが、コンスタンティヌス1世の3人の息子たちは(確定的な証拠はないのだが、おそらくは彼らの策謀と推定される)、親族を粛清し、軍の支持を得て帝国の分割統治を行なった。その際ユリアヌスの父親である、ユリウス・コンスタンティウス(コンスタンティヌス帝の腹違いの弟)は殺害されたが、幼いガルスとユリアヌスの兄弟は生き残った。

[系図]
┌コンスタンティヌスⅠ(306-37)┬[西]コンスタンティヌスⅡ(337-40)
│              ├[中]コンスタンス(337-50)
│              └[東]コンスタンティウスⅡ(337-61)
└ユリウス─┬─ガルス
     └─ユリアヌス(361-63)

 長男コンスタンティヌス2世はブリタニアガリアヒスパニアを統治していたが、三男コンスタンスに北アフリカの領土の分割を要求。拒否されたためアルプスを越えて、弟の領土へ攻め込んだ。340年春北イタリアへ侵攻するが、事前の準備が不十分だったことからアクィレイア近くで行われた戦闘で捕らえられ、長男コンスタンティヌス2世は殺されてしまった。コンスタンスはコンスタンティヌス2世が統治していたブリタニア、ガリア、ヒスパニアなどを引き継いだ。こうして西方3分の2を三男コンスタンスが、東方3分の1を次男コンスタンティウス2世が支配することになった。両帝は北方蛮族やササン朝ペルシアとの抗争に明け暮れ、この状態が340年から350年まで続いた。

 しかし、コンスタンス帝はマグネンティウスが反旗を翻したことにより殺害される。さらに老将ヴェトラニオも正帝を称した。これに対し、唯一の皇帝になってしまったコンスタンティウス帝は背後の安全を確保するため、ペルシアと休戦協定を結んだ。

 これは双方の利害が一致し、容易に成立した。というのも、ペルシア王シャープールはローマの城塞都市ニシビス包囲に3回も失敗して戦局は劣勢であったし、また王国東北部に蛮族が侵入したためである。また、コンスタンティウス帝は東方の動きに備えるために、前述の粛清で生き残っていたガルス(ユリアヌスの兄)を副帝に任命し、二人の帝位簒奪者討伐に向かった。ヴェトラニオは早々に降伏し、ドナウ河畔のムルサでの会戦でマグネンティウスは敗れた。しかし帝国を再統一したといっても、この内戦でローマ軍は実に5万4千もの戦死者を出し弱体化した。この後、無能な副帝ガルスは残忍な統治ゆえ処刑され、355年、弟のユリアヌスが副帝に任命された。

 ユリアヌスは、父を粛清で殺された後、小アジアで6歳から20歳近くまでを兄とともに事実上軟禁状態で育った。兄弟は最初祖父の家で養育され、その後カッパドキアの皇帝領地の古城に移されて幽閉同然の生活を送った。このとき、家庭教師マルドニオスから大いに影響を受け、とりわけギリシア、ローマの古典をよく読んだ。そのことが、表面上はキリスト教徒であったが、本心はギリシア・ローマ古来の神々を崇拝し、後に異教復興の政策を実行する土壌となったようだ。また、幼くして経験した、キリスト教徒の宮廷で起こった一族虐殺のショックも大きかったようだ。後年になって書簡でこのときの犠牲者の数を数え上げている。

 348年以降、ニコメディア、ペルガモン、アテネなどで哲学、特に新プラトン主義の哲学者たちに師事した。新プラトン主義は3世紀ごろにプロティノスによって展開され、当時流行していた。プロティノスは、プラトンの説く「一なるもの」(ト・ヘン)を重視し、語りえないものとして、これを神と同一視した。 万物(霊魂、物質)は無限の存在である「一者」(ト・ヘン)から流出した理性(ヌース)の働きによるものであると説いたのである。一者は有限の存在である万物とは別の存在で、一者自身は流出によって何ら変化・増減することはない。また、人間は「一者」への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができる。一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスといった。こういった部分は神秘主義にも通じるものがある。そして「一者」の思想は「一神教」の発想とも結びついたのだった。

 355年~361年は、コンスタンティウス2世とユリアヌスの共治の時代だった。3年間にわたる内戦で多くの将兵が失われていたため、ライン川、ドナウ川を越えて多数の蛮族が領内に侵入していた。コンスタンティウス帝はドナウ川戦線に向かい、一方、副帝となったユリアヌスは蛮族が荒らしまわっていたガリアに少数の兵を与えられて派遣された。この際、ユリウス・カエサルの「ガリア戦記」の注釈書を読んで勉強したようだ。ユリアヌスは少ない兵力ながらも蛮族を撃退しつつ、ケルン(Colonia Agrippina)、マインツ(Moguntiacum)などの都市を奪回した。

 そして、ストラスブール(Argentoratum)近郊で、1万3千の兵力で3万5千のアラマンニ族に相対した。アラマンニ軍は一部の兵をくぼ地に潜ませていたので、不審に思ったローマ軍の左翼の前進を控えた。一方、ローマ軍の右翼では、騎兵隊が総崩れとなって歩兵の第二戦列の後ろに逃れた。アラマンニ軍はローマ軍の第1戦列に猛攻を仕掛けて、中央を突破したがローマ軍の第Ⅱ戦列はこれを食い止めた。ユリアヌスは騎兵舞台を立て直して駆けつけ、アラマンニ軍は総崩れとなったのである。この勝利により、フランク族などをガリアから一掃することに成功した。そして荒廃した主要都市や農地を再建すべく内政に力を入れた。当時のローマ帝国は、国家があらかじめ決めた額の税を国民から徴税する方式になっていたので、官僚機構が肥大していた。そのため、ユリアヌスは出費の節約と無駄の解消に努め、税の徴収に公正を期した。また、減税を行なって、労働意欲の向上を促した。さらに、ドーヴァー海峡の海賊を一掃してブリタニアとの連絡を回復し、数度にわたりライン川を越えてゲルマン人の本拠地に攻め入った。こうしてユリアヌスは、軍と国民に絶大な人気を博したのである。コンスタンティウス帝もドナウ川の北へ蛮族を撃退し、ローマで凱旋式を行なった。これはローマで行なわれた最後の凱旋式だった。

 再び、ペルシア王シャープールは動き出し、多大な犠牲を出しながらも国境の近くの都市アミダを攻略してシリア属州に迫った。これに対しコンスタンティウス帝は東方に遠征するに当たり、ユリアヌスに精鋭兵士を供出するよう迫ったため、ユリアヌスは苦境に陥った。これを不満に感じた軍隊は、ルテティア(パリ)でユリアヌスを正帝に擁立した。こうして、二人の皇帝は対決必至となった。ユリアヌスは電光石火の強行軍でドナウ川の軍団を味方につけ優位に立ったが、コンスタンティウス帝が45歳の若さで病死したため、内戦は回避された。
361年から363年まで1年9ヶ月、ユリアヌスはローマ帝国を統治した。ただ1人の皇帝となったユリアヌスは首都コンスタンティノポリスに入城した。このころから、彼はひげを伸ばし始め(キリスト教徒にとってひげは異教徒の様相)、異教崇拝も公言しはじめた。また、先帝の悪徳である肥大化した宮廷の人員を削減し、宦官を排除した。

 わずか数ヶ月の首都滞在のうちに大量に法律を作り、行政法だけでなく異教復興に熱意を燃やした。テオドシウス帝の時代に編纂されたローマ法大全にも、彼の作った法律は多く残っている。キリスト教徒を弾圧したわけではなく、コンスタンティヌス1世、コンスタンティウス2世のようなキリスト教優遇政策をやめて、廃れつつあった異教の祭儀、神殿の復興をユリアヌスは図った。先の2人の皇帝は国家予算を使って教会を立てていたし、また教会への莫大な寄進を行なっていた。そして、聖職者や教会資産に免税の特権を与えていた。ユリアヌスはキリスト教会が得ていたこうした特権を剥奪しようと試みたのである。

 ユリアヌスは、対ペルシア戦の根拠地に、シリア属州の人口100万都市アンティオキアを選んだが、ここで数々の問題にであった。作物の不作で食糧不足になっていたので小麦を輸入したところ、この都市の有力者たちはそれを買占めたため市民に小麦がいきわたらなかった。このことでユリアヌスは有力者たちに激昂し、深刻な対立を起こしたのだ。また、市民たちはキリスト教徒が多く、かれの異教復興政策に対して反感を買っていた。そこでかれは、「ミソポゴン」(ひげ嫌い、の意)という風刺的散文を書き、忘恩のアンティオキア市民たちへの軽蔑をあらわにした。

 ペルシアとの戦争に向かうにあたりユリアヌスは7万の軍勢をもって臨んだ。そして、これを二分した。自らはユーフラテス川を下るルートを取り、第二軍としてセバスティアヌス、プロコピウスの両将軍にはアルメニア王の軍勢と合流した後、ティグリス川を南下するよう、指示した。

ユリアヌスは3万の手勢ながらも戦闘を優勢に進めて、クテシフォン郊外の戦いで大勝した。しかし、合流するはずの第二軍はいつまでたっても現れなかった。そのため第二軍と合流すべくティグリス川に沿って北上することを決意した。兵糧、軍需物資の輸送はユーフラテス川を下る艦隊に依存していたので、川を遡行させることもできないし、艦隊をそのまま置いていくわけにも行かない。そこで彼は全て船を焼いて撤退することにした。こうしたことが、兵たちの士気に影響したことは容易に想像できる。北メソポタミアへの撤退行の中、突然の死が訪れた。投げ槍がわき腹に刺さり、ユリアヌスは戦死したのである。彼の死後、異教復興に関する法案は全て廃案となってしまった。彼の治世がもっと長かったならば、キリスト教が今日まで栄えるということは、なかったかもしれない。

最後に、コンスタンティウス、ユリアヌス両帝の宗教政策の比較をする。まず前提として313年のミラノ勅令がある。これは、キリスト教を公認し、全ての宗教は平等とした法律だが、実際はコンスタンティヌス帝はキリスト教を優遇する政策を取っていた。父の製作を継いだコンスタンティウス2世は、公費で教会を建造し、聖職者、教会関係者を非課税にした。また、異教の祭儀を禁止し、神殿を閉鎖させた。
それに対し、ユリアヌス帝は帝国の宗教状態をミラノ勅令に戻そうとした。全てコンスタンティウスとは反対の宗教政策を行い、異教復興を目指したがわずか1年9ヶ月の短い統治のため、結局目的は達成できなかったのである。