馬車郎の私邸

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「バシレイオス2世について」

ビザンツ帝国バシレイオス2世といっても、よっぽど高校時代に世界史が好きだった人以外は知らないだろう。上位大学に時たま出題される程度なので、この人のことを覚えるよりは、他の重要事項を覚えたほうが良い。

しかし、だからといってこのような歴史上の傑物を無視してしまうのも大変惜しいことだ。受験のためには知らなくてもよいが、歴史好きな人の知的好奇心のためには知って損はない人物だ。バシレイオス2世はビザンツ帝国の最盛期を体現している。彼の波乱の生涯について少しまとめてみようと思う。これをきっかけに、ビザンツ帝国の歴史に興味を持ってくださると幸いだ。 ====  バシレイオス2世(在位:963、976-1025、共同皇帝:960-961、963-976)はマケドニア王朝の皇帝ロマノス2世と皇妃テオファノの長男として生れた。ロマノス2世は963年に亡くなり、あとにはテオファノとバシレイオス、コンスタンティノスの幼い二人の皇子が残された。帝位はバシレイオスが継いだが、彼はまだ幼いため実権はテオファノが握った。しかしテオファノはこの体制が長続きするとは思ってなかったようで、小アジアの大貴族出身の将軍ニケフォロス・フォカスと手を結んだ。こうしてニケフォロスがテオファノと結婚し、ニケフォロス2世フォカス(在位:963-969)として即位した。969年に、ヨハネス・ツィミスケスが、テオファノや行政を取り仕切っていた宦官バシレイオス・ノソス(ロマノス1世の庶子。)らと結んでニケフォロス2世を殺害して帝位を簒奪し、ヨハネス1世ツィミスケス(在位;969-976)となった時も母親のテオファノは追放されたものの、二人の皇子は引き続き共同皇帝であった。976年にヨハネス1世が病で没すると、18歳になっていたバシレイオス2世が正皇帝となった。しかし、彼の 統治の初期の実権は大叔父の宦官バシレイオス・ノソスが握ったままであり、有力な将軍が次々と帝位を狙って反乱を起こしたのである。さらにはブルガリアが勢力を復活させ、再び帝国を脅かすようになった。Basilios_II

 7世紀以降バルカン半島に居座ったブルガリアは、キエフ・ルーシの侵入で打撃を受け、さらにそれを迎え撃ったヨハネス1世にどさくさに紛れて征服された。しかしブルガリアの西半分は969から976年までの間にサムイル王の下で独立した勢力を回復し、ヨハネス死後の帝国の混乱に乗じて勢力を伸ばした。サムイルはテサロニカやテッサリアを攻撃し、985年にはラリサを占領した。バシレイオスは親征してサルディキ(現ブルガリア共和国の首都のソフィア)へ侵攻したがサルディキ占領に失敗し、かえってブルガリアから反撃されて撤退した。こうしてブルガリアは勢力を拡大し、黒海からアドリア海に至る領土を支配した。治世の初期、バルダス・スクレロスの反乱、宦官バシレイオス・ノソスの追放と、バルダス・フォカスの反乱の解決は、対ブルガリア戦と平行して行われたのである。この危機を経て、皇帝の性格は疑い深く、何事も一人で決める専制君主となった。

 内憂外患の内憂を解決した後、彼はひたすら強大な帝国を作ることに明け暮れた。その戦いは死ぬまでの約40年続いた。ビザンツ史家プセルロスは、「バシレイオスは生涯のほとんどを国境を守る兵士として、バルバロイの略奪者から港を守る衛兵としてすごした。」と書いている。危機を脱したバシレイオスは、今度は最も危険な外敵ブルガリアを打倒することに力を注ぐ。バシレイオスはクロアティア・ディオクレア(現在のモンテネグロ付近)・ヴェネツィアとの同盟を強化し、東方の安定のために西グルジアとも条約を結んだ。こうして周辺を固めると990年の末からブルガリアとの戦いを始めた。991年にはマケドニアへ侵攻、サルディキ占領に着手する。

 戦いは帝国に有利に展開していたが、994年、アレッポのイスラム教国ハムダーン朝(ビザンツの属国化していた)がファーティマ朝の圧力を受け救援を要請してきた。バシレイオスは当初テマ・アンティオキア長官に兵を送って救援を命じ、自らはブルガリア征服を続行したが、アンティオキアに派遣した軍が敗北。すると彼はブルガリアとの戦いを中断して帝国を西から東へ26日で横断、17,000の兵を伴ってアンティオキアに入った。この報に接するとファーティマ朝の軍はアレッポから撤退した。

 その後2年は首都に留まって内政に取り組んでいたものの、998年には戦いを再開、ブルガリアに注力しつつも、アンティオキアが脅かされるとシリアへ赴く、という行動を取った。その間にもグルジア・アルメニアを帝国に服従させ、999年9月にシリアへ、1000年には西グルジアを併合、1001年にはアジア からバルカン半島へ渡ってブルガリアの旧都プリスカとプレスラフを占領、その後も帝国軍は4年に及ぶ激闘の末にマケドニア・テッサリアを制圧、1005年 にはアドリア海沿岸のデュラキオンも帝国側へ寝返り、ブルガリア・サムイル王の支配領域は半分以下になった。

 プセルロスは,「バルバロイに対する遠征において、バシレイオスは他の皇帝のように春のなかばに出陣し、夏の終わりに引き上げてくるということをしなかった。彼にとって帰還するときとは作戦が成功したときであった」と書き残している。

 1014年7月、テサロニカ北方のクレディオン峠でバシレイオスはサムイルの軍隊を破った。この時バシレイオスは恐るべき行為に出た。14,000人の捕虜の100人に1人を残して両目をつぶし、残った1人は片目をつぶした。そして片目の者 1人と盲目の99人を1組としてサムイルの下へ送り返したのである。この盲目の捕虜達がぞろぞろやってくるのを見たサムイルは卒倒し、2日後には世を去ったという。これによって後にバシレイオスは「ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)」と呼ばれるようになった。

 その後もサムイルの子とその従兄弟が抵抗を続けたが、1018年にはバシレイオスはブルガリアを完全に制圧し、バシレイオスはサムイルが都としていたオフリダ(現マケドニア共和国オフリド)に凱旋入城した。これによって30年あまりの戦いの末、バルカン半島全土は再びローマ帝国領となった。バシレイオスは既に60歳になっていた。

 彼は内政においては、大貴族や大土地所有者には苛烈に当たる一方、小農民の保護に努め、占領地では穏健で配慮の行き届いた措置をとった。台頭する大貴族 に度々帝位を脅かされたバシレイオスは、大貴族の力を削ぐことに力を注ぎ、テマ制度を支える兵農兼務の自立小農民の保護に努めたのだ。

 996年の勅令では、922年以降(ロマノス1世が大土地所有を制限する勅令を出した年)に有力者が貧者から入手した土地は時効も賠償請求も無く 返還させる法律を制定し(それまでは40年の時効があった)、さらにはその数年後には貧富の差の拡大で税金が払えなくなった農民が増えたため、貧しい農民 が滞納した税金を近隣の貴族に支払わせるという、かなり荒っぽい連帯責任制度(アレレギュオン)を創設した(それまでは近隣の農民が連帯責任を負っていた)。強力なバシレイオスに恐れをなしていた貴族達は不満の声さえあげられなかった。
 
 一方、新たな占領地に対しては、その地方の習慣と状況を考慮した行政が行われた。たとえば経済の進んでいた地方に課していた金納の税に変えて、物納を認めたりした。またブルガリア占領の際、ブルガリアの首都オフリダの総主教を府主教に降格させたが、コンスタンティノープル総主教から独立した自治権を認められた。新占領地はテマに組織して統治されたという。

 南イタリアでは、オットー3世の死後、神聖ローマ帝国のハインリッヒ2世やイスラムの海賊との戦いやランゴバルド族の反乱などが続いていた。バシレイオスはヴェネツィアやピサの支援を受けてイスラムの 海賊を討ち、1009-1010年、1017-1018年と起きたランゴバルト族やノルマン人の反乱を、レオーン・トルニキオスやバシレイオス・ビオアニスが苦労の末に鎮圧させ、南イタリアの支配を強化した。1024年のハインリッヒ2世の死後にはランゴバルド族諸侯も服属させた。

 これを見たバシレイオスはイスラム海賊の拠点となっているシチリアを征服し、南イタリアの支配を安定させようと、先遣隊をイタリアへ派遣し、準備を整えていたがその矢先の1025年12月25日に死去した。彼の死んだ時、帝国領は東はシリア・アルメニア、南はクレタ島、西は南イタリア、北は古代ローマ帝国の国境線であるドナウ川までに拡がっていた。バシレイオスが禁欲的で金を使わなかったため、宮殿の倉庫にはおびただしい量の財宝が残されていた。しかし、彼の死と共に帝国の絶頂期は終わりを告げた。

 このように、バシレイオスの内政は、マケドニア朝の皇帝が概してそうだったように、大土地所有の潮流を押し戻そうとした。だが、それは彼の死によって中絶した。軍事面ではユスティニアヌス帝に次ぐ最大領土を獲得した。けれども、小アジアは死後数十年のうちに失われ、帝国の領土がバシレイオスの時代の領土に戻ることはついぞ無かった。宗教面においては、妹アンナの婚姻を通じて、キエフ公国のキリスト教化を行った。ロシア文化に大きな影響をもたらしたのである。

 しかしながら、彼が帝国に残した遺産は全て失われたにせよ、彼の歴史上の意義は不滅である。すなわち、バシレイオス2世は、ビザンツ帝国の最盛期を活動によって体現したのである。東奔西走しながらあらゆる敵を打ち破り、内政面では弊害となっていた事象に対して抗する政策を行った。バシレイオス2世は、ビザンツ帝国の最盛期をその行動でもって演じてみせたのだ。言い換えれば、バシレイオス2世とは、1000年前後のビザンツ帝国の最盛期そのものだったのである。

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