馬車郎の私邸

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ネロ帝の生涯について(後)

ネロ帝の生涯について(前編)
(承前) 
 母の死から一年、ネロはローマでオリンピックを開催する。競技種目は現代の陸上競技とそれにボクシングとレスリング、マラソンは当時まだない、そして戦車競争があった。劇場も解放され、このイベントを盛り上げるべくアウグストゥス団という応援団が結成された。一般にネロ祭と呼ばれたこのイベントは好評のうちに終わったが、5年後にもう一度開催されただけで、彼の死とともに忘却される。しかし、このとき彼が造らせたネロ浴場は長く残った。

 翌年ブリタニアで反乱が起こる。10パーセントの属州税が高すぎるのではなく、借金をするための金利が高すぎたため反感が募っていたのであった。制覇途上のブリタニアでは貸すほうにもリスクが伴う。金利は野放しの状態であり、高利貸しが横行していた。セネカですら、これで巨富を築いていたのである。決起したブリタニア人は今のコルチェスターに入植していたローマ人を血祭りに上げた後、出動した一個軍団を壊滅に追いやった。ブリタニア総督スエトニウス(皇帝伝の著者とは別人)は遠征中で留守だった。ローマ人と、その友好関係にあったブリタニア人7万人が虐殺された。総督スエトニウスは援軍を待たずわずか1万の戦力で、戦術を駆使でき得意な平原での会戦を挑んだ。結果は圧勝に終わり、実に8万もの敵兵の死体が戦場を埋め尽くしたと、タキトゥスは言う。ローマ軍の損害は死者400名、負傷者数もほぼ同数というのもなかなか信じがたい。何にせよ事態は収拾されたので、ネロは解放奴隷のポリクレトスを送った。奴隷出身の視察者にブリタニア人は失笑したが、彼は有能でその報告を元にブリタニア統治を大いにあらためた。以後400年ブリタニアで反乱が起こることはまったくなかった。
 
 ローマがアルメニア王に据えたティグラネスの状況は大変不安定だった。コルブロはシリア総督になっていたので、アルメニア戦線にはぺトゥスという武将が送り込まれた。またしても指揮系統は二分された。ブリタニア問題では適切な処置をし、アルメニア問題では果断な対応を見せ、統治者の資格十分と市民に好感を持たれていたネロだったが、この時期、彼に直言できた二人の人物を失ったのである。

 近衛軍団長官のブルスが病死し、よって立つ地盤を失ったセネカは、引き際を悟り引退した。この時期までのネロの統治は少なくとも悪政ではない。だが、自己制御の能力に欠けるネロに直言できる人物はいなくなってしまったのである。ネロはさっそく、オクタヴィアと離婚してしまい、ポッパエアと結婚した。市民はオクタヴィア支持のデモ活動を行なったが、ネロは彼女を島流しにしたばかりか、殺してしまった。皇帝としての地位の正当性はますます希薄になった。ユリウス=クラウディウス朝の血筋の後ろ盾は失われたため、ネロは統治の実力の成果をより厳正に問われることとなった。
 
 東方ではぺトゥスがアルメニア侵攻を当初は順調に進めていたものの、パルティア王自らが率いる大軍に敗れ、兵糧も十分でない冬営地に逃げ込むも、包囲されてついに降伏してしまった。戦勝に上機嫌なパルティア王は寛大にも武装解除すら要求しなかったが、アルメニア領からのローマ軍完全撤退とユーフラテス川東岸の要塞撤去を要求した。この事態にネロはコンシリウムを招集。(おそらく英語のCouncil(会議)の語源と思われる、この第一人者の補佐委員会は、皇帝とその年担当の執政官二人に法務官と元老院議員の代表20名で構成される。)ネロは同じ過ちを三度はしなかった。コルブロに東方問題の白紙委任状を与え、全権を委任したのだ。この問題に関して皇帝に指令を仰ぐ必要がなくなったコルブロは5万の軍勢を率いてアルメニアへと北上した。

 その頃ネロに娘が生まれた。だが、3ヶ月も経たずに死んでしまったので大変彼は悲しんだ。少子対策法として、選挙の際子持ちの者ほど優遇されていたが、その抜け道である偽りの養子縁組が横行していたので、これを法律で規制した。また、属州民の総督を告発する権利が乱用されて、総督が現地の有力者に必要以上に気を使わねばならなくなっていたので、この事態を改善した。

 一方、コルブロは城塞を次々と攻略し、親パルティア派の貴族の所領を焼き討ちして、破竹の進撃を続けた。また、外交交渉も同時に進んでいたのでついにコルブロとアルメニア王ティリダテスの両者の会談が実現された。ぺトゥスが敗北した場所で行なわれたこの会談で、平和条約の締結と、アルメニア王のローマでの戴冠式が決定した。ネロとパルティア王の承認を得て、ティリダテスははるばるローマへと赴き、ネロの手で王冠を授けられた。そして、「ローマ人の友人にして同盟者」の称号が与えられた。コルブロに焼き払われていた首都の再建にローマの技術援助が決まる。これに感謝したティリダテスはアルタクサタをネロニアと改名した。こうして、トラヤヌス帝の時代まで実に50年、東方は平和を享受した。

 ローマ人は、自分たちの首都ローマではその都市計画の才能を発揮できなかった。ローマは自然発生的に出来た都市であり、人口の流入も激しかったからだ。100万を超える人口の多さゆえに、インスラと呼ばれる五、六階にもなる集合住宅が多かった。壁以外は全て木材で造られていて、また外壁はとなりの建物と共有している場合は多かった。この建物が密集したローマを、大火事が襲った。7000人の消防士に出来たことは、バケツリレーと延焼防止のために建物を壊すことだけだった。

 ネロは火災を知るやいなや、50キロ離れた別荘からアッピア街道を北上し首都に駆けつけて、被災者対策の陣頭指揮を執った。公共建築物は全て被災者収容のために解放し、近衛軍団にはテントを張らせた。ありったけの麦をローマに運び込み、価格を通常の7割引まで引き下げた。再建には金が必要だったので金貨と銀貨の金と銀の含有量を0.5%だけ落とした。これは215年のカラカラ帝の時代まで変えられなかった。それに金銀の産出量は経済成長に比例して増えるわけではない。妥当な改革だったといえよう。また、家並みを規則正しく区画し、道幅を広げ、建物の高さを規制し、防火対策のための柱廊を自費で敷設した。ガレキは外港オスティアの沼地の埋め立てに使った。また、住宅再建を促進するために奨励金制度を設けた。こうしてローマは以前より格段に整然となり美観も良くなった。しかし、このような人間の思慮から生まれた復興事業も将来への備えも、不名誉な噂を消せなかった。つまり、ネロは火災を眺めながら、太古の不幸になぞらえて、「トロイの陥落」を歌っていたという噂である。

 ネロはギリシア人がアルカディアと呼んだ緑豊かな理想郷を、消失した地域に造ろうとした。人口湖と自然公園を造ろうとし、高さ4メートルの黄金のネロ像を建造させた。また、一般に黄金宮殿と訳されるドムス・アウレアを建てた。しかし完成に至らず、黄金像の頭部は太陽神の顔にすげ替えられ、他の場所には大浴場や神殿や、あの有名なコロッセウムなどが後に建てられた。ローマ人は都心の緑よりも、これらを求めたのである。ドムスという私邸を意味する言葉を使ったのも良くなかったし、また全焼地域が建設予定地だったので、ローマに火をつけたのはネロだという噂が広がった。

 ネロはこの疑いをある新興宗教の信者になすりつけた。放火罪と人類憎悪の罪と称して、200人から300人と推定されるキリスト教徒が野犬の群れに食い殺され、また十字架にかけられ火刑に処された。確かにキリスト教徒は嫌われていたが、この残酷な処刑はかえって同情を招いた。キリスト教のミサに供されるパンとぶどう酒はキリストの肉と血であることを、人身御供を忌み嫌うローマ人は知っていた。キリスト教徒に対して、タキトゥスは「日ごろから忌まわしい行為で世人から恨み憎まれ」、また「この有害きわまる迷信」と記述し、スエトニウスも「前代未聞の有害な迷信にとらわれた人種であるクリストゥス信奉者に処罰が課された。」と書くほどの嫌いようである。迷信とは誤った信仰のことを指す。古代では一般的だった多神教徒のローマ人たちは、他者の信ずる神を認めないとする一神教を迷信とみなしたのだ。

 ギリシア文化に心酔するネロは、詩作と音楽が好きだった。詩作に関してタキトゥスとスエトニウスは正反対の評価を下している。タキトゥスは盗作だと、うがった見方で推測しているが、スエトニウスは実際にネロの手帳を入手し、推敲の跡が十分見られるし、有名になった詩もいくつか含まれていたと主張する。
 ネロはかねてより実行しようとしていた歌手デビューを果たした。ギリシア文化に理解ある、ギリシア人の都市ネアポリス(現ナポリ)で。歌う皇帝見たさに、会場は満員となった。

 練習は熱心にやっていたそうだが、所詮は下手の横好きレベルであっただろう。しかし、皇帝が歌うとなれば興味本位で人は集まるし、拍手喝采を浴びるのも当然であった。気を良くしたネロはローマでも歌おうとした。これにあわてた元老院は、皇帝のタレント化を防ぐため、ネロを弁論部門と歌唱部門の優勝者にすることを決議した。だが、ネロはこれを拒絶した。小泉首相がX-JAPANが好きだからといって東京ドームでライブをやるとしても、3万人も観客が集まるとは考えがたい。しかし、3万人収容可能なポンペイウス劇場は満員となった。入場は無料だし、好奇心に駆られた民衆が詰め掛けたからである。優勝したかは定かではないが、どうやら結果は大成功で民衆は拍手と歓声を、このシンガーソングライターに浴びせた。しかし、属州や同盟国から来た人々は歌う最高権力者に唖然とし、元老院議員や騎士階級の人々は苦々しく見つめるのだった。

 歌う皇帝は、民衆に親近感は抱かれても、敬意は抱かれない。ついにネロを暗殺しようという陰謀が起こった。ピソの陰謀とベネヴェントの陰謀である。計画は未然に発覚し、多くの名士が処刑された。引退していたセネカも疑いをかけられ、自死を命じられた。本場でデビューを果たすため、応援団を引き連れて、ネロはギリシアへ渡る。オリンピックでは、戦車競技と音楽部門で優勝。しかし、本当は戦車からは一回落ちてしまったし、本来、オリンピックには音楽部門はない。ネロは各地の競技会で優勝した。歌う皇帝見たさにギリシア人は集まったし、ギリシア全土を自由都市への移行を宣言したからだ。税金がなくなるなら誰だって喜ぶ。もちろんネロの死後、元に戻されたが。

 ちょうどギリシア滞在中に、ユダヤで反乱が起こった。ネロはヴェスパシアヌスに全権を与えた。ネロの死後の内乱を収拾し、後に皇帝となるこの人物は、ライブの最中に寝てしまい不興を買っていたが、ネロは人選を間違えなかった。
 
しかし、ベネヴェントの陰謀の後始末のつもりか、ネロは卑劣極まりない暴挙をしでかした。ライン川方面軍の司令官、スクリボニウス兄弟と、シリア総督コルブロを感謝の手紙でギリシアに呼び寄せ、自死を命じたのだ。三将の死は30万の軍団兵たちに反ネロの感情を抱かせたが、それでもまだ軍団兵は蜂起しなかった。

 ローマへ帰ったネロは凱旋式を行なった。戦争の勝利ではなく芸術の勝利を祝う、この凱旋式の感謝の相手は、いつものように最高神ユピテルではなく、芸術の守護神アポロンであった。この型破りな凱旋式に庶民は熱狂したが、面白いことは何でも楽しむのが庶民というものだった。

 憂国のガリア人がついに決起する。だがそれはガリアの独立のためではなく、帝国を救うために。ガリア・ルグドゥネンシス(現リヨンを中心とする属州)の総督ガイウス・ユリウス・ヴィンデックスが10万人のガリア人とともに立ち上がった。家門名がユリウスなのは、かつてガイウス・ユリウス・カエサルがかつてガリア全土を制覇したときに、ガリアの部族長たちに自分の家門名を大盤振る舞いしたからである。ヴィンデックスはヒスパニア・タラコネンシス(現スペインの3分の2)の総督ガルバに第一人者になるよう要請した。

 しかし、この反乱は、高地ゲルマニア総督ルフスの軍勢によって即座に鎮圧された。ルフスは兵士たちに皇帝に推挙されたが、断った。一方ガルバは、イベリア半島の総督たちの支持を取り付け、軍団を率いてローマへ進む。元老院は一度はガルバを国家の敵と宣言したが、一方でガルバと連絡を取り続けた。ついにネロは市民と元老院の支持を失い、国家の敵と断罪された。68年6月9日、ネロは自害した。治世の14年目、30歳だった

 死を前に「これで一人の芸術家が死ぬ。」と言ったとされるが、確かに彼が言いそうなことだった。遺体は、彼を育てた乳母と、最後まで忠実だったアクテによって葬られた。墓所はマルス広場のどこかであったが、今はその位置はわかっていない。彼の墓は長い間、季節の花や果物が絶えることはなかった。なるほど、皇帝であったことを忘れるなら、一人の愉快な若者だったかもしれない。それに善政をやらなかったわけではない。ただ、彼には持続する意思と自己制御の能力に欠けていた。

 パルティア王は、友好条約を更新する際、パルティアとアルメニアにとってネロは大恩ある人だから、毎年行なってきた感謝祭をこれからも続けることを許してもらいたいと元老院に申し入れた。ネロの死後、一年のうちにガルバ、オトーヴィテリウスの3皇帝が次々と倒れる内乱となった。北イタリアでライン川軍団とドナウ川軍団が激突した。この惨状にネロを懐かしむ声さえ聞かれるようになった。また、何人ものネロの偽者が現れた。スエトニウスの青年時代、死後20年も経っていたのに、ネロを称する偽者が出現し、やっとのことでパルティアから当局に引き渡されたほどであった。