馬車郎の私邸

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ネロ帝の生涯について(前)

 ネロ帝はもっとも有名なローマ皇帝である。他のローマ皇帝の偉業よりも、ネロの悪行の数々は一般的に良く知られる。首都ローマに火を放った、キリスト教徒に弾圧を加えたといった所業はかつてローマ帝国だった場所だけでなく、極東の島国まで知れ渡っている。暴君中の暴君としてあげられる名前としてネロはあまりにも有名だ。
 しかし、ネロに関する共通認識と先入観ははたしてどの程度まで正しいのか。ネロとは完全な暴君であり、その治世の全ては悪政であったのか。その答えをこれから明らかにしていきたい。我々の時代のステレオタイプに基づくのではなく、ネロ帝の時代に比較的近い古代ローマ人の文献資料に基づくと、また違った側面が見えてくるだろう。そういうわけで、古代人の著作によればネロ帝の治世はどのようなものだったのか、エピソードをまじえながら紹介していこうと思う。  ネロ帝の時代(54年~68年)を知る資料は、主にタキトゥスの「年代記」とスエトニウスの「皇帝伝」である。タキトゥスはドミティアヌストラヤヌスの時代の元老院議員であり、スエトニウスはトラヤヌスとハドリアヌスの秘書官であった。二人は心情的に共和制主義者であった。しかし、彼らの時代は平和と繁栄の時代だったので非難のしようがなく、二人の非難は過去の帝政へと向けられた。二人はあら捜しのために、あらゆるスキャンダルやゴシップを見逃さない。特にこの傾向はスエトニウスに顕著で、「以上で私は、非難の余地のまったくない、いやむしろ偉大な賞賛に値する事績を、ネロの破廉恥と罪悪から区別するために一括して述べてきた。今から後者について述べてみたい。」と前置きして、この種のことを嬉々として述べるのだ。(もちろんこの書き方はネロ帝の治世は善政も悪政も両方あったということを示している)彼らの著作の資料は元老院議事録、国民日報や回想録などの古代には存在していた情報媒体に、依存している。そしてそれに加えて、世間の噂も取り入れて述べている。

 ネロ帝の即位は母アグリッピーナの野望が原因だった。皇帝を毒殺してわが子を帝位につけたのだ。先代のクラウディウス帝は50歳で予期せぬ帝位に就いた皇帝で、カリグラ帝の失政で打撃を受けた国家を建て直した。現存していないが、歴史書も書いた。ブリタニア征服が進んだのも彼の治世だったが、投入された戦力は少なく、征服はゆっくりと進んだ。統治の補佐のために、優秀な解放奴隷を用いた秘書官システムを作ったが、元老院の悪評を買った。クラウディウスは統治には熱心だったが、妻をコントロールできなかった。皇妃メッサリーナは勝手放題の限りを尽くし、次期執政官のシリウスとの二重婚にまで及び、破滅した。再婚相手は、カリグラ帝の妹で、息子がいたが未亡人のアグリッピーナだった。アグリッピーナは、息子のドミティウス・アエノバルブスをクラウディウスの養子にすることに成功した。クラウディウスには、すでに一男二女がいたのだが。ネロ・クラウディウスと改名した、アグリッピーナの息子は、クラウディウスの実の息子より4歳年上だった。また、ネロはクラウディウスの実の娘オクタヴィアと婚約した。こうしてアグリッピーナの野心は着々と進行したのである。アグリッピーナは息子に帝王教育を授け、また統治の後ろ盾とするために、二人の人物を起用した。元老院議員で哲人と名高いルキウス・アンナエウス・セネカと、セクストゥス・アフラニウス・ブルスという武人である。セネカはネロの家庭教師となり、ブルスは近衛兵団の長官に就任した。文武の両面でネロは支援を受けたのだ。ネロはオクタヴィアとの結婚式を挙げた後、政策立案者として16歳にして元老院にデビューした。若いネロの才気と教養を印象付ける必要があったのだろう。もちろん4つの提案は可決された。

 さて、きのこ料理が好きだったクラウディウス帝は、毒殺された。ネロは近衛軍団の支持を得て、元老院はネロを第一人者(プリンチェプス)と決議した。市民は妻の言いなりになっていたクラウディウスを軽蔑していたし、元老院は解放奴隷から成る秘書官政治の廃止を望んでいたので、両者ともにこの16歳の若々しい皇帝を歓迎した。

 しかし、新皇帝とその後見人の実力はさっそく試された。ローマの同盟国アルメニア王国にパルティア王国が侵攻したのだ。パルティア王ヴォロゲセスは妾腹の出であったが王位に就いた。正妻の王子であるティリダテスが、年長の兄に王位を譲ったからだ。兄は弟の恩義に報いるために、アルメニアの王位を与えようとした。そして、ついにアルメニア王を追い出し、弟を王位につけたのだった。セネカは歴戦の名将コルブロを派遣した。人選は正しかったが、彼に全権を与えなかった。コルブロはカッパドキアとガラティアの総督となり、対パルティアの作戦はシリア総督クワドラートゥスとの二本立てで行なわれた。コルブロに与えられた戦力は、ドナウ川中流のモエシア属州から移動してきた1個軍団とシリア属州駐屯の2個軍団、それに同盟国の参加兵で、合わせて約3万4千だった。当方に派遣されてから三年目にコルブロはアルメニアに攻め入った。各地の城塞を攻略し、首都アルタクサタに迫ると、アルメニア王ティリダテスはパルティアに逃げた。無血開城だった。首都は焼き尽くされ、ティグラネスが王位に就く。しかし、この人物はローマ育ちでアルメニア人になじみがなく、地盤がなかった。ローマ軍の守備隊もわずかだったので、この人物の王位は危ういものだった。

 息子を帝位につけたアグリッピーナは大いに影響力を振るった。しかしネロはそれを嫌った。息子の反抗はまずアクテという奴隷を愛することから始まった。アグリッピーナを先帝に再婚相手として推薦したパラスという秘書を解任した。誰のおかげで皇帝になれたと思っているのかと、逆上したアグリッピーナが先帝の実子ブリタニクスを擁立しようとしたため、恐怖に駆られたネロはブリタニクスを毒殺した。その死はたいていの人に黙殺された。ローマ建国のときも、兄が弟を殺したのだし、二人の君主は並び立たない、と。アウグストゥスもカエサルとクレオパトラの息子カエサリオンを殺している。

 しかしアグリッピーナは反撃を開始した。資金集めをし、ライン川方面軍の軍団長と連絡を取り始める。さらに夫にないがしろにされ、弟も殺されたオクタヴィアに接近し味方に引き入れる。彼女は市民の同情を受けていたからである。一方息子も負けずに、母の警護隊を取り上げ皇宮から追放した。また公式の場に出席する機会も奪った。それでも母は対抗処置をやめず、その上回想録まで書き始めた。ローマ史上後にも先にも著作を書いた女はアグリッピーナただ一人だ。タキトゥスも参考にしたと言っている。手ごわい母親との戦いにはセネカやブルスも積極的に関与したようだ。でなければ10代の若者にこうもやすやすと出来るわけはない。

 以前は母に非難されてきたことをネロは堂々とやり始めた。同年代の取り巻き連中を連れて夜の街へと繰り出すのだ。その仲間の一人にオトーという元老院議員の息子がいた。20歳頃からネロは親友の妻に恋をしたのである。その女はポッパエア。美貌の持ち主で高貴な家柄の生まれであり、機知に富んでいた。地味な正妻オクタヴィアとはネロは常に疎遠であったし、誠実なアクテにも飽きてしまっていた。ネロは邪魔者を排除するために、オトーをルジタニア(現ポルトガル)の総督に任命して追い払った。ところが意外なことにこの皇帝の悪友は9年間も任地で善政を行なった。彼はネロの死後短い間だが皇帝となる。ネロはオクタヴィアと離婚しようとしたが、この政略結婚を放棄することは統治の正当性を失うとしてアグリッピーナは猛反対した。ついに極端な解決法をネロは思いついた。船を沈没させて暗殺しようとしたが失敗し、刺客を差し向けて母を暗殺した。元老院と市民はアグリッピーナを嫌っていたので、国家反逆罪による死という発表を信じる振りはした。母殺しの大罪はネロの心に重くのしかかり夜ごと母の亡霊に悩まされるのだった。
(後編へ続く)