馬車郎の私邸

漫画、アニメ、ゲーム、音楽、将棋、プロレス観戦記など「趣味に係るエッセイ・感想・レビュー記事」をお届けします!ある市場関係者のWeb上の私邸

東京電力に変わりうる主体はないことについて

まず、犠牲者の方々に心より哀悼の意を捧げますとともに、被災地の方々が一刻も早く安心を取り戻せるよう、お祈り申し上げます。
当ブログの管理人は無事でございます。震度6弱、そして2分以上長く揺れた大地震は初体験でなかなかハードでしたが、家にいたので大丈夫でした。節電・ヤシマ作戦に協力しつつ、随時ブログの更新を再開していきたいと思います。

首都大混乱 by 「計画停電」というちきりんさんの記事を読んで共感しました。なので、今日の記事ではまず、これを引用しながら書いていこうと思います。
日本人は超がつくほどマジメ。だから「計画停電」なんて言われると、「計画的にきちんと停電するんだ」と思いこみます。

コレね、ちきりんは「計画停電」という名前が生んだ不幸だと思うんです。最初から名前を「無計画停電」とか、「もしかしたら停電」、「通電、午後ところにより時々停電」くらいにしておけばよかったんです。

「皆様の節電のご協力もあり、電力が足りるかどうかはやってみないとわかりません。というわけで、明日は“もしかしたら停電”を実施します」とでも言ってれば、みんなももうちょっと落ち着いて「今日さあ、もしかしたら停電らしいよー」程度のことですんだんです。

私たちは、「計画」されたことがほぼ必ず「実行」されるという、世にも珍しい国に住んでいます。しかも“ほぼ官”ともいえる東京電力様が「計画」という言葉を使ったら、そりゃあみんな「当然、実行されるんだろう」と思います。これが、ソフトバンクあたりが言ったことなら、「まあ、一応計画してるらしいよ」くらいのことで済んだかもしれません。でも、なんといっても天下の東京電力ですからね。


さすが、いつものおちゃらけぶりを取り戻してくれています^^「無計画停電」とか、「もしかしたら停電」、「通電、午後ところにより時々停電」、良いネーミングですね。14日は確かにJRとの連携もうまく取れず、首都圏で主に交通の面で混乱が起きました。肝心の計画停電も、夜にやったくらい。今日15日は、きっちり計画通りの計画停電を出来ているようで、、全体の需給を見ながら部分的に停電するという神業のようです。「カリフォルニア電力危機」、「2003年北アメリカ大停電」では、出来なかったことです。

しかも、東京電力は人類史上最悪規模の震災、すなわち大地震に加えて10メートルを超える恐るべき津波をくらった原発をコントロールしながらも、首都圏全体の停電を防いできたのです。このような状況の中で、計画停電のオペレーションをしているのですから、これはもう離れ業というほかないでしょう。計画されたことだからその通りになってくれなくては困ると東京電力をあえて責めることは必要はないでしょう。ストレスのはけ口にすることと、有益な批判は決定的に異なる。

電気は通ってて当たり前、電車は遅れずに走ってて当たり前という、100%を求める考えはこの際捨てましょう。世の中は自分の都合だけではなく、他者の都合の集合で出来ています。たしかに会社に出勤できない、このままでは帰れないという焦燥感にかられるのは分かりますが、それ以上の焦燥感に負けずに頑張っているのは東京電力の人たちです。また、言うまでもなく被災地の方々は、計画停電で困る人よりも、大変な思いをしています。要するに、このような第三次の状況下では、他人の都合を考えてから自分の都合を考えるべきです。

原発については、今回の原発事故がいかなる規模になっても、東京電力を責めるべきではない。それで、問題が解決するわけではないからです。責めることと、ガバナンスを効かせることは違う。それが私の立場です。まず地震により、今回原子力発電所に起こったことは何か、確認してみましょう。
3/13時点の記事ですが、MITの研究者Josef Oehmen氏の分析から、例えば一部を抜粋してみます。
日本で起こった地震は原発が想定した最
悪な地震の16 倍です(リクタースケールは対数スケールであり、想定された8.2 と起こった9.0 は16 倍であり、0.8 ではありません)。よって全てがもったことは、まず日本工学技術の賞賛に値するところです。M9.0 の地震が起こったとき、全ての核反応炉は自動停止しました。地震が始まって数秒以内に制御棒は核の中に入れられ、ウランの核連鎖反応は止められました。今、冷却システムが残った熱を取り去らなければなりません。余熱の負荷は通常運転の3%程度です。
地震は核反応炉の外部電力供給システムを破壊しました。これは原発にとってもっとも深刻な事故であり、原発の停電についてはバックアップシステム設計時にかなり考慮されています。電力は冷却剤ポンプを動かしつづけるために必要です。原発は停止したので、もう自力で電気を作り出すことはできません。一時間ほど事態はうまくいきました。複数ある緊急ディーゼル発電機の内の一つが稼働し、必要な電力を供給しました。そして津波が来ました、それは原発を建てたとき人々が予想だにしなかった大きさのものでした(上述、16 倍)。津波は複数あった全てのディーゼル発電機を持ち去っていきました。


「M9.0 の地震が起こったとき、全ての核反応炉は自動停止しました。地震が始まって数秒以内に制御棒は核の中に入れられ、ウランの核連鎖反応は止められました。今、冷却システムが残った熱を取り去らなければなりません」
このことがまず驚きです。どこの原発の核反応炉もしっかり止まっており、チェルノブイリのような事態にはならないことがわかります。(そもそも炉の種類は違うというのもある)
しかも、M9.0とは、原発が想定した最悪の規模の地震の16倍というのですから、これで大惨事になってないことは驚嘆に値することでしょう。(参考マグニチュードの増え方)

そのうえ今回の地震は、地震に加えて高さ10メートル以上という恐るべき津波までありました。すべての緊急発電機を流されてもなお、様々な措置を講じて、懸命の活動が何日間も続けられていることは、ほんとうに凄いことです。yahoo地震速報でも分かるとおり、余震の数は尋常ではありません。今なお浜通りを夥しい数の震度4,5クラスの地震が襲う中、耐えぬいている原子炉も、それを40年前(!)に設計し作った人も、今まさにそこで頑張っている方々も、それぞれたいへんに立派なのです。100%安全でないからといって責めるのは、八つ当たりであり、筋違いでしょう。

また、池田信夫さんのBlogの「危機は避けられたか」の記事にあるとおり、「連鎖反応がふたたび始まる再臨界が起こらないと仮定している。しかしこのまま炉心溶融が進行すると、再臨界が起こって圧力容器が破壊される確率はゼロではない。」
そのため、もちろんこの点は今後も注視していく必要はあるでしょう。

だからといって、過剰な情報開示を求めて現場や対応者、東京電力の人を疲弊させたり、不安を過大に煽るような報道は慎むべきです。東京電力は、経営資源を原発の管理と、計画停電の実施に集中しなくてはいけないからです。もちろん、情報の受け手も冷静にならないといけない。テレビや新聞、インターネットニュースの見出しは扇情的だが、新聞社のネット記事を比較すると、私の見る限り日経ネットは比較的冷静に書いている。マスメディアの報道については、今はとやかく言いません。なぜああした報道になっているかは、内田樹さんの「街場のメディア論」をお読みになるとわかります。

原発については、以下の2つの記事も参考になるかと思われます。
だからチェルノブイリとは違うって何度言えば分かるんだってばよ!原発についてまとめてみた
「ミリシーベルト」「マイクロシーベルト」とはどんな単位なのか、どのくらいから危険なのか?放射線量計測単位のまとめ

原発の問題にせよ、計画停電の問題にせよ、東京電力は”今”出来ることを精一杯にやって下さっている(仮に、かつて危機管理について何らかの不作為があったとしても)。そして東京電力は、世界でもいまだかつて類例のないことに対して、立ち向かっている。そして、この問題は、他のいかなる組織が肩代わりすることもできない。つまり、東京電力に変わりうる主体はないのです。首都圏の人間は、今のところ避難も必要ないし、東京電力に対する批難も必要ない。自分の都合は、他者の都合の集合の中にあることを考えて、冷静に対処していくべきでしょう。東京電力や関係者の足をひっぱるのではなく、サポートすることが大切です。建設的な批判は後になってからしましょう。

今まではかつて当たり前に得られたことのありがたみに感謝し、それが今は100%得られないことをしっかり受け止め、あるもので満足するべきです。何もなくなってしまった方々とは違うのだから。寛容な心が今の首都圏の人間には必要なことだと思います。

最後にBLOGOSに投稿された記事に良いものがあったので、ぜいひ読んでみて下さい。

今こそ、「国民性」の発揮はバランス感覚を持って ‐ 與那覇 潤』からも
今回の震災、特に原発問題に顕著なように、このわが国で近世以来、統治機構の任務と目されてきた「生存の保障」=セキュリティとは、心情的にどうしても「100%」を要求してしまう領域です。もともとかような伝統があったところに、近代以降の資本主義化の要請に伴って極度にパンクチュアル(時間厳守)な就労・交通・産業の規律が持ち込まれた結果が、毎日ダイヤに「100%」忠実に運行する鉄道であり、終日「100%」開店してくれるコンビニでした。これはもちろん日本社会が誇れる特徴でしたが、その一方で「100%ではない」ものに対して極度に非寛容な風土を育みもしました。これもまた、日本人の国民性の正負両面が一体となっている事例です。

これだけの災害に「100%完璧」に対応できる統治機構など、世界中どこにも存在しません。逆に「計画停電」の有無に関わらず、ふだんから電車は時間通り来ず・開店時間が日によりまちまちで・サービスの質も人により一定せず・商品供給も安定していない国は、先進諸国も含めていくらでもあるのです。まして、それが被災地を支えるための電気や物資の逼迫によるものなら、(生命維持に直結する部門を除いては)むしろ定刻どおりに通勤しようという発想自体を止め、それに起因するサービスの低下に利用者側も寛容になり、「すべてを手許に買い揃えなければ安心できない」消費行動を控えることが重要と思います。いま、安全が確保された地域で求められているのは「100%」を追及し続けてきた国民性の「緩和」であり、熱狂ではないと考える次第です。