馬車郎の私邸

漫画、アニメ、ゲーム、音楽、将棋、プロレス観戦記など「趣味に係るエッセイ・感想・レビュー記事」をお届けします!ある市場関係者のWeb上の私邸

過去の歴史を振り返ることについて

 過去の歴史を振り返る時は、どうしても"今"の常識、考え方で過去の歴史の出来事や人物の行動を判断しがちである。だから、過去の世界で生きていた人々の思考や感性、常識の体系は現在とは異なっているという前提を念頭に、理解しようとつとめなければならない。もちろん、古代=奴隷制=悪の短絡思考は言うに及ばす、何でも完全に分かったつもりになってはいけないのだ。あることについて、自分の思考が"そうとは限らない"ことを常に勘定に入れておくべきである。

 現在と過去の常識は多くの場合、決定的に異なっている。端的な事例をあげるならば、古代ギリシア、ローマではくしゃみは吉兆と考えられていた。ホメロスの「オデュッセイア」巻17に、テレマコスが大きなくしゃみをして母のぺネロペイアが喜ぶシーンがある。(ちなみに、右側でくしゃみが起こればなお良い)また、クセノポンの「アナバシス」巻3、第2章にも、クセノポンの演説中に誰かがくしゃみをしたので、兵士たちが吉兆を示した神に拝礼する場面が存在する。しかし現代では、花粉症でくしゃみする人を見て、何か良いことが起こると期待する人は皆無であろう。

 この事例なら、昔の人々は不思議な常識を持っていたものだと思えるだけだ。しかし問題は、現代では支配的な価値観や常識に対しての、過去の人々の考え方を扱う場合である。
 
 キリスト教は現代においては世界的な宗教だが、古代の地中海世界では当初、怪しげな新興宗教でしかなかった。歴史家のタキトゥスとスエトニウスの2人ともが、著書の中でキリスト教を「前代未聞の有害な迷信」と書いた。多神教徒である古代人は一神教を、他者の信ずる神を容認しない、排他的で非寛容な、誤った信仰とみなした。しかし、現代の欧米人の価値基準は基本的にはキリスト教に根ざしているため、古代ローマ帝国は、否定的なステレオタイプで捉えられがちである。なぜなら、キリスト教は古代文明の価値観に対する勝者だからだ。
 ユリウス・カエサルは「多くの人々は、見たいと思う現実しか見ていない」と述べた。この点は重要で、肝に銘じておかねばならないことだ。だから、例えばユダヤ人の学者が、ユダヤ民族の歴史やユダヤ教の教義を全肯定するためだけに歴史を研究するのであれば、それは歴史学とはいえない。
 
 歴史は善悪という基準で解釈されてはならない。だが、現代日本で支配的な歴史観は、日本の過去の行動を一度悪と規定したうえで解釈された歴史観である。つまり、現代の観点から過去を断罪することが目的となっていて、政治的失敗は、道徳的な罪にすりかえられている。例えば、日本が太平洋戦争に突入した理由は、当時の政治的・経済的な必要性・合理性が説明されるのではなく、日本が悪いことをしたとしか描写されない。このような理性や冷静さからかけ離れた情緒的な固定観念を打破していかなくてはならない。
 
 過去の歴史を見る時、過去へ問いかけを行いながらも絶えず再解釈し、先入観や現代の価値観を極力排する心がけが必要だ。そしてこのことは、過去の事実に到達は出来ないが近づいていくことは可能であるという意味において、終わることなき永遠の探求であり、歴史の魅力の一部をなしているのかもしれない。