馬車郎の私邸

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国債に疎い首相と、マックス・ヴェーバー「職業としての政治」

マスコミによるネタ作りのための粗さがしや揚げ足取りではない、本格派の失言が菅直人首相の口から飛び出した。それは、国債格下げの件についてである。

菅直人首相は27日夕、首相官邸で記者団から、米格付け会社スタンダード&プアーズ(S&P)が日本の国債格付けを「ダブルA」から「ダブルAマイナス」に格下げしたことについて問われ「いま初めて聞いた。本会議から出てきたばかりだ。ちょっとそういうことに疎いので、また改めてにさせてほしい」と述べた。

日経新聞より

国債、あるいは国債の情報、話題に疎いということか。たとえ、本当に疎くないにしても、この言い方は多分に誤解を招き信用を損ねる発言だ。あるいは、本当に疎いが故に、「ちょっとそういうことに疎いので、また改めてにさせてほしい」というのが「今答えられないから財務官僚に聞いてくるよ」という意味だとしたら、まさしく噴飯ものである。

どちらにせよ、44兆円もの赤字国債発行を行う予算に関わる者には全くふさわしくない発言だ。軽率なことを言うくらいなら、「真摯に受け止め、財政の改善に善処していく」くらいの空手形を切り、その場を取り繕うくらいの配慮はすべきであろう。ふとした瞬間に首相は、国債の問題、広い意味では財政の問題に対しての態度をさらけだしてしまったようである。

マックス・ヴェーバー「職業としての政治」は多分に示唆的である。ヴェーバーは、政治家の3つの資質について、以下のように述べている。
政治家にとっては、情熱、責任感、判断力の三つの資質がとくに重要であるといえよう。ここで情熱とは、事柄に即するという意味での情熱、つまり、事柄(仕事、問題、対象、現実)への情熱的献身、その事柄をつかさどっている神ないしデーモンへの情熱的献身のことである。(中略)情熱は、それが仕事への奉仕として、責任性として結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な基準となったときはじめて政治家をつくりだす。


国債の問題に疎いと、うかつにも言えてしまうのは、国債の問題にコミットしていないという無責任さが透けて見える。つまり、情熱が仕事への奉仕として責任性として結び"ついておらず"、この仕事に対する責任性が行為の決定的な基準と"なっていない"ようである。前向きな姿勢すら見せずに疎いと言えることは、真摯さ、誠実さを欠いている。

そしてそのためには判断力――これは政治家の決定的な心理的資質である――が必要である。すなわち精神を集中して、冷静さを失わず、現実をあるがままに受け止める能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。「距離を失ってしまうこと」はそれだけで大罪の一つである。


先の発言の状況における判断力についても、"事物と人間に対して距離を置いて見る"ことは出来ていないようだ。世阿弥は能の奥義として「目前心後(自分の眼は前を見ていても、心は自分の背後に置かれている状態)」の心得というものを述べている。菅直人首相は、首相のコメントと、国債(の問題、話題)を俯瞰したうえで、適切な対処をすべきであった。要するに、客観視することが求められる状況であった。

人前で話す人間、まして一国の首相ともなれば、自らの言葉に関心を払わなければならない。「国富論」で有名なアダム・スミスの言葉を借りれば「公平な観察者の視点」で、発言する自分を眺めることが肝要である。

このように、「そういうことには疎いので~」の発言は、首相の情熱、責任感、判断力という政治家の3つの資質を疑わせる発言であった。日本の政治状況は思った以上に危機的である。