馬車郎の私邸

漫画、アニメ、ゲーム、音楽、将棋、プロレス観戦記など「趣味に係るエッセイ・感想・レビュー記事」をお届けします!ある市場関係者のWeb上の私邸

「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」第5巻、伏見つかさ、電撃文庫

妹がいなくなった「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」というタイトルの小説はどうなってしまうのか!?結論から言えば、それは杞憂で面白かったです。第5巻のあらすじはこんな感じ↓(※公式です
“先の読めない”ドラマチックコメディ、第5弾!
「じゃあね、兄貴」──別れの言葉を告げ、俺のもとから旅立った桐乃。……別に寂しくなんかないけどな。 新学期。平穏な高校生活を謳歌する俺のもとに、奇妙な後輩が現れる。「おはようございます、先輩」。俺は、黒猫(クロ)の人間としての真名を知り、より深い“絆”を築いていくことになる。“妹”と“親友”。ともに大きなものを失った二人は、数多の思想が渦巻く校内で、“魔眼(マガン)遣い”の少女と対峙する。稀少能力(レア・アビリティ)”を持つ少女に、俺と黒猫は圧倒され、異空間へと誘(いざな)われ……!! 
“日常”と“非日常”が交差するとき、物語は始まる──!!

中二病風味のあらすじですが、黒猫が高校の後輩として入学。新キャラの赤城瀬菜と併せ、妹の桐乃がいないことを忘れるくらいの存在感。麻奈実との絡みも多く、京介にとっては比較的平和な学校の生活だろうか。原作者インタビューにもある通り、アスキーアートやフォントを使った表現が随所に盛り込まれている。京介も妹の趣味に相当に染まりはじめ、いい感じに壊れ始めていてそこがまた面白い。 大筋は高校に入学して後輩となった黒猫こと、五更瑠璃がなかなか友達が出来ないのを気遣って京介が一緒にゲーム研究会に入部し、てんやわんやといった具合だ。4巻で大活躍(?)したあの男はなんとそのゲーム部の部長で、4巻で友人の赤城が妹のためにホモゲーを購入した理由が妹のためだったことも本当だった。全巻の伏線はバッチリ生かされている。

赤城が4巻で言った通り、彼の妹である瀬菜は腐女子であった。桐乃が男性的な(過度の)オタク趣味だから、やはり腐女子の登場もありうると思っていた。ここで作者は、メタ発言として「男性作家によって面白くするためにデフォルメされたまがいもの」であると、他ならぬ瀬菜自身に言わせているのは賢明な配慮だ。そもそも言葉の使い方として、女性のオタク=腐女子とはではないし、腐女子と思われたくない女性のオタクはいるだろうし、趣味を同じくしない人間に腐女子と思われたくない腐女子もいる。加えて、腐女子はオタクを兼ねることも多い。とてもややこしいけれども、世の男性は、仮にアニメ好きな女性と話すとして、その場合当然であるが少なくとも相手が腐女子であると安易に思い込んではならない。理由は前述の通りである。相手の関心とスタンスを察したうえで接しなくてはならない。あるいは、接しない、ということもそもそも想定すべきであろう。

また、腐女子といってもいっしょくたに論じられるものではない。腐りたてのミーハーな腐女子もいれば、バランス感覚を持った中庸を重んじる者もいるし、無機物や概念でさえもカップリングとして萌えられる玄人の上級レベル腐女子もいる。その程度は決して一様な物ではない。もちろん、腐女子は各人、贔屓の作品もカップリングも、世間に対する態度や、コミットメントの度合いも異なる。その世界は奥深く、男性の理解が及ぶところではないし、そもそも理解するような性質のものでもない。(まれに腐男子もいるが…)

第1巻の感想で書いたとおり、こうした腐女子のプレゼンスが明らかに増し、決して無視しえないまでに顕在化している。見えなかったものが、見える世の中になってきている。以前より相対的に、見ないふりで通すこともしづらくなっている。では、どのように折り合いをつけたらいいか?少なくとも石原慎太郎都知事のような「嫌悪」の姿勢ではいけない。
参考:深町秋生のベテラン日記2010-12-13 石原慎太郎の目指すもの「嫌悪の狙撃者」
「嫌悪」こそが今日の人間が生きるための情念である。「嫌悪」だけが、自らを正しく見出し、己の生を生きるための情熱を与え得る唯一の術だ。「嫌悪」の遂行こそが現代における真の行為なのだ。それが遂行される時にのみ、真実の破壊があり、革命があり、創造があり得る。「嫌悪」に発する、精神的に凶悪な思考だけが真に知的なものであり得る、等々、私は私なりにその主題を発展させていったのだが。


なんとも、器の小さい!これが現代日本人と古代ローマ人の政治家の力量の差だ。カエサルはこう言っている。
「わたしが自由にした人びとが再びわたしに剣を向けることになるとしても、そのようなことには心を煩わせたくない。何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは、自分の考えに忠実に生きることである。だから他の人もそうあって当然と思っている」

古来より、日本は同性愛、というより男色に寛容な国であった。神話だけではなく、最澄や空海を始めとする僧侶や寺は言うに及ばず、足利将軍、戦国大名、能や歌舞伎の起源に…と、少しでも日本史に知識がある人には、事例がたくさん出てくるだろう。もちろん世界史でも同じ。プラトンを読んでいると、当たり前のように少年愛が語られる。(むろん、これは倫理的、哲学的な意味合いもあるのだが)とにもかくにも、同性愛や男色に対する嫌悪は日本人にとって歴史上本質的ではない。

確かに、今となっては、男性の楽しみであった「ガンダム」「少年ジャンプ」「仮面ライダー」「戦隊シリーズ」は、腐女子を含む女性をターゲット層として成り立っているコンテンツとなり果てている。だからといって、男性ファン諸氏は、仮に苛立つ部分がどこかあるとしても、先日の2ちゃんねるのような事態のような浅はかな短慮に走ってはいけない。結局のところ、愉しみ方が(決定的に)違うといえども、愉しんでいる対象作品は共通である。寛容な態度と心の余裕を見失ってはならない。分かり合えるということはおそらくないけれども、棲み分けはできる。

さて、肝心の5巻の話をしていないのだが、総体としてコメディ中心で話のギミックが面白い箇所が多かった。京介と黒猫は確かに親しくなっているのだけれども、それでいて微妙な距離感と、心の中の想いも描かれていて読みごたえがある。戯言ながらに京介を「兄さん」と呼び始めた4巻から、「先輩」になるはずが、5巻でも"兄さん"とからかうように呼び掛ける黒猫。だが、その一方で「私は妹の代わりではない」とも言う。

ゲーム作りをめぐる瀬菜と黒猫のライバル関係は、弁証法的に止揚されるかたちで良い方向にいったので読後感としてもすっきりし、5巻は幕がおろされるかと思ったが、そうではなかった。異変を示唆するメールが、留学中の桐乃から送られてきたのだ。

京介に桐乃のもとへ行くよう鼓舞する前の、黒猫の告白と同然ともとれる感謝の言葉は、さんざんこの人物のひねくれ具合を1巻から見てきただけに、京介ならずとも感慨もひとしおだろう。「妹の代わりではなく、お前のことが心配だと言ってもらえて」「同じ部活に入ってくれて、クラスで孤立しているのを心配してくれて、プレゼンのフォローをしてくれて、田村先輩(麻奈実)との時間を削ってまで一緒にいてくれて」嬉しかったのだと言うが、ここまで素直になるとは思わなかった。しかも、頬にキスをして、京介の後押しをするのだから驚きの展開だ。

だが、その驚きの次の驚きが、この作者の真骨頂だろう。陸上強化選手の留学プログラムで留学した桐乃がいるアメリカへ行き、かつて桐乃からもらった妹もののエロゲーをやりにいくとは、恐るべき超絶シナリオ…ここで使われている象徴的なアイテムがエロゲーでなければ良いお話なんだが(笑)なんにせよ、桐乃のストイックさとその挫折、一矢報いる負けん気の強さは桐乃という人物像の深掘りにつながったし、兄の妹に対する思いも熱いものだった。そして、兄貴の尽力で久しぶりに再会した黒猫と桐乃。互いにひねくれ者の二人が素直になった再会のシーンは清々しい美しさに不思議と満ち溢れていた。
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