馬車郎の私邸

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「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」第3巻、伏見つかさ、電撃文庫

1,2巻の感想には書かなかったが、この本のタイトルは「俺の幼馴染がこんなに可愛いわけがない」でも良いと思う。というのも、主人公の幼馴染、通称"地味子"こと田村麻奈実は、傍若無人な妹の桐乃よりも、主観的にははるかに可愛いと思えるからだ。アニメ版では、佐藤聡美さんが声をあてており、なおさら可愛い。この人は演技の幅が非常に広い。

では、この眼鏡の幼馴染の存在意義は何か?それは歯止めである。この幼馴染がいることで、京介の人間関係の描写が、妹の桐乃一辺倒になることを防いでいる。各巻の第2章は常に、麻奈実と京介の仲睦まじい様子と微笑ましい光景に割り当てられている。そうした描写は、アクの強いこの作品の中で、一服の清涼剤ならぬ解毒剤(?)の役割を果たしている。

京介は何かある度に常々、もう田村さん家の子供になるもんねと言ってスネており、実際のところ、驚くほどに和菓子屋の田村家に馴染んでいる。(親公認だと…!?)ニヤニヤが止まらない気恥ずかしいやり取りが、4巻で起こる惨劇を知っていると、悲しく思えてくる。(あまりに悲惨な悲劇なのだ!)

さて、京介と麻奈実のほのぼのいちゃいちゃぶりに、興味深い一節があったので抜粋しようと思う。
これでも来年は受験生だ。無駄な時間の使い方だと思うよ。だけど同時に、その無駄が大切なんじゃねえかとも、思う。余分なところにこそ価値があるってのが、俺の人生観だ。
いまにして思えば、俺のそういう考え方が、オタクどもの生きざまに共感したのかもしれない。
ゲームにしろ、マンガにしろ、アニメにしろ、どんなに追求したところで、社会の役に立つようなもんじゃない。大事な時間を無為に削ってしまう、生産性のない遊びだ。
だが、だからこそ、そこには変換の利かない価値があって、多くの人々を熱中させているわけだ。そうバカにしたもんじゃあ、ない。


「生産性がないからこそ、そこに変換の利かない価値がある」とは上手い逆説で、なるほどと思える。この一節を読んだ後、「寄生獣」の最終巻でミギーが言っていたセリフを思い出した。

「道で出会って知り合いになった生き物が、ある日突然死んでいた。そんな時、なんで悲しくなるんだろう」「そりゃ人間がそれだけヒマな動物だからさ。だがな、それこそが人間の最大の取り柄なんだ。心にヒマ(余裕)がある生物、なんと素晴らしい」

人間の人間たるゆえんとまでは言わないが、ある種の真理が示唆されているような気がする。趣味人とは、心に余裕がある人間であり、生産性がないようなことについても意味を見出し、人生を楽しむ人々ではなかろうか。

以下はネタばれになる。 本編の内容は、桐乃のケータイ小説の取材につきあい、そしてその盗作騒動を背景に桐乃の友人"黒猫"とともに出版社へ乗り込むというものだ。1巻で桐乃が友人を作る手助けをしたことで、京介は、黒猫、及び沙織・バジーナとは、桐乃と共通の友人となっている。たった一人で立ち向かった1,2巻とは違い、今回は友人が一緒である。黒猫は表面上は桐乃といがみあってはいるが、腹の底では友人思いだ。

大変な道のりではあったけれども、結局は盗作の犯人を見事暴くことに成功。論証の過程はなかなか見事だった。また、最後のほうには、アマチュア作品に関する論評があり、興味深い。作中の編集者のセリフだが、あとがきによれば、実際に作者の編集の方が考えてくださったということだ。引用してみよう。

「アマチュア作品全般には、作者固有の創りたいものが、むき出しのまま転がっていることが多い。商業作品として研磨されると消滅してしまう類の面白さがそのまま残されている。まさしく、ケータイ小説のように、アマチュア的な良さが活かされた商品を創ろう―そういうビジネスモデルが成り立っていることこそが、ときにアマチュアがプロを凌駕しうるこのとの証明ではないでしょうか。もちろん技術的には稚拙なものが含まれていることは否定しませんが―だからといって玉石混交なものを一緒くたに否定するのは愚かなことです。」

我が意を得たり!
いや、"禿同"といったほうが適切かなf^^;
たとえば、ニコニコ動画の面白さはまさにそこだろう。
金になるならないは別にして、創る権利は誰にでもあるのだ。そしてアマチュア創作者の裾野の広がりがあってこそ、商業的に流通する名作は生まれるのである。