馬車郎の私邸

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奥田英朗「空中ブランコ」文春文庫

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友人が貸してくれたシリーズ1冊目「イン・ザ・プール」は、
なんとも不可解であった。
もう1冊貸してくれた「散るぞ悲しき」は評判にたがわず良かった。
栗林中将の硫黄島での悲壮な奮戦をクールに描いたルポルタージュは
胸にジーンとくるものがあった。

ところが一方、「イン・ザ・プール」との落差があまりにも激しかった。
破天荒な精神科医伊良部のもとに、毎話一人の主人公が訪ねるという体裁を
とっている短編の連作なのだが、これがなかなかにお下劣なのである。
栗林中将の高潔さのあとに読むには、少々つらかったf^^;

まず伊良部一郎という人物がすでに奇天烈である。
常識知らずでデブでマザコンで注射フェチであり、
そのうえ、いわゆるオタクのステレオタイプ的な醜さを
属性として持つ、とんでもない野郎である。
(栗林中将が見たら何と言うだろうか…)

しかも、この伊良部に治療を受けに来る人物たちが、
どいつもこいつも、下世話な悩みを抱えている。
「イン・ザ・プール」では、プール依存症の編集者、
「勃ちっ放し」では文字通り勃ちっ放しの陰茎強直症になってしまったサラリーマン、
「コンパニオンでは、誰かに尾行されている気分に悩む自意識過剰なコンパニオン
「フレンズ」では、ケータイ依存症の高校生、
「いてもたっても」では、タバコの火の始末の確認をどうあってもやめられないルポライター。
とにかく、一癖も二癖もありすぎる連中ばかりである。

人物の行動にせよ、偏執的な思い込みにせよ、伊良部の振る舞いにせよ、
とにかく癪に障って、不愉快だった。
結局この小説は何なのだ、本当に作者は直木賞作家か?
現代人の病理をあえて下卑たところから浮き彫りにしようというのか?
友人はそもそも、何でこの本を自分に貸したのだ?
一体どのような意図があってのことか?
これは不条理小説なのか?
カミュだっけか、殺人を犯したのは「太陽が眩しかったから」
って小説のほうがまだわかるような気がするぜ…

と、色々考えたのだが、これら全ての腑に落ちなさは、
シリーズ2作目の「空中ブランコ」が面白かったために、
あっけないほどに解消された。
結局、面白いか面白くないかだったわけだ。

そして、登場人物の造詣は1作目ほど下品な点もなく、まともな範疇である。
各分野の一流の人物が精神的な悩みを抱えているという筋立てで読みやすい。

表題作「空中ブランコ」では、悩めるサーカスの空中ブランコ乗りが
ジャンプの失敗はキャッチするパートナーによる嫌がらせだと思っているのだが、一流の人間だからこそ自身の変化に気づけない煩悶がよく描かれている。

2つ目の「ハリネズミ」、これが一番面白かった。
主人公は、紀尾井一家の若頭を務めるほどのヤクザなのだが、
なんと尖端恐怖症で箸すらもてない。
注射針どころか、伊良部の飄々とした態度にいちいち狼狽と動揺を
隠せないヤクザの図がなんとも滑稽だった。
血判状を押すにも、短刀が怖くて指をちょこっと切ることさえ出来ない。
果たしてどうなってしまうのか―
そのうえ伊良部を伴って、対立するヤクザとの交渉へ…?
愉快でコミカルな展開の移り変わりに、ハラハラドキドキ。
1つの短編小説として面白かった。

「義父のヅラ」では、精神科医が主人公なのだが、
義父のカツラを剥ぎ取りたくなってしまう衝動に悩まされている。
いつカツラを剥いでしまうのか!
スリルに背筋ゾワゾワな、1篇。

他の2編は、新人ルーキーにポジションを脅かされ、
ボールを投げられなくなったベテラン三塁手と、
執筆中以前に書いた内容かもしれないと過剰に危惧する女流作家の話。

私たちが何気なく見ている有名な人たちは、
いったいどんな心の悩みを抱えているのだろう。
そんなこともあるかもしれない、
あんなことで案外治っちゃうのかもしれない、
自分にも他人にもわからない心の問題。
作者はユニークな視点から、
アイデアをちりばめて、
人の心を描いている。