馬車郎の私邸

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 三沢光晴さん、リングに死す…

ニコニコ動画の、毎時総合ランキングを見た。
私がうpした動画があった。
3位だった。
見ると、コメントの様子が、三沢さんの死を悼む悲しいものだけだった。
何が起こったというのか、わからなかった。
(ニュース記事の引用と、今朝のニュース映像は一番下↓)


2009年6月13日、場所は広島グリーンアリーナ。
久々のGHCヘビータッグ選手権ということで、この好カードがどうなるか楽しみにしていた。

王者である、齋藤彰俊、バイソン・スミス組には愛着がある。
初めて生で観戦した試合は、2008年のグローバルタッグリーグの開幕戦、そして2回目は最終戦で、齋藤、バイソン組は優勝。
その勢いでGHCタッグ王座を奪取した。
国境を越えた二人の友情に感動した。

一方で潮崎 豪、三沢光晴組は今年のグローバルタッグリーグを制した王者だ。
5月6日、ここに感想は書かなかったが実は見に行っていた。
佐々木健介、森嶋猛という規格外のパワーの持ち主二人の恐ろしい攻撃に、成長著しい潮崎がよく耐え、優勝となった。

だが…

だが、この試合が…
三沢さんを見た最後の試合になってしまうとは全く思っていなかった。

そして…6月13日。
47歳の誕生日を間近に控えたタイトルマッチ、その試合で亡くなったというのだ。
ニュースをYoutubeで検索して見ても信じられない。
が、ニュースサイトはどこもかしこも、こぞって報道していた。
ノア三沢光晴さん急死、試合中に頭を強打

齋藤彰俊のバックドロップで頭を強打したことにより、心肺停止に陥ったのだと言う。
しかし、三沢さんは受身の達人、天才である。
バックドロップの受身を取り損ねたわけではないだろう。
なにしろ、あのジャンボ鶴田や、スティーブ・ウィリアムスの強烈、凶悪なバックドロップを、地球上で最も多く喰らい、なおかつ立ち上がってきた男なのだ。
ゆえに、不死身、ゾンビとも言われる。
やられてもやられても立ち上がるその姿は、どれだけたくさんの人に勇気を与えてきたことか。

長年にわたる首へのダメージの蓄積が、今回の一撃で吹きだしたのだろう。
戦いは死闘ばかりだった。
鶴田、ハンセン、ゴディ、ウィリアムス、川田、田上、小橋、秋山、ベイダー、高山…
恐るべき強者との激闘の歴史の果ては、死だった。

ニュース記事が伝える最期はあまりに悲壮である。
 レフェリーが「動けるか」と聞くと、三沢は「動けない」と答えたが、すぐに意識を失った。

あらゆる過酷な攻撃を受けてもそのたびに立ち上がった三沢さん。
その三沢さんが、「動けない」と言ったとき、本当に二度と立ち上がれない時だったとは…
言葉に出来ない。
不屈の闘志で立ち上がれないとき、それが死だとは精神力強すぎるだろ…

「プロレスラーの敵は自分自身」と三沢さんは語っていたけど、
あなたは自分自身に対して勝ちすぎたのだ…

人間の限界を越えてずっと戦ってきたことは、同時に人間の世界からいなくなることを意味していただろうか?

リングに生き、リングに死す。
それを、現実の世界で体現してしまった。
ノアだけはガチが、このような形で証明されるなんてやりきれない。
天国の馬場さんや鶴田さんはどう思ってるのだろうか。
ともあれ、私がプロレスを見始めるきっかけは、まぎれもなく三沢さんでした。
その三沢さんの突然の死は、他人の死が私の人生で初めて大きな影響をもった瞬間です。
人の死で泣いたことは初めて。
満身創痍で戦い続け、文字通り死ぬまで戦ってしまったことは、永遠に記憶に…
mixiニュースでも皆このことについて書いていて、14000件以上も日記があった。
あまりに衝撃的過ぎる。

今まで90年代前半の三冠戦などを特集したり、他にもプロレス関連の動画は三沢さんを中心に紹介してきました。
在りし日の勇姿を見ることが供養になるかはわかりませんけれども、
少なくとも戦う三沢さんの姿から得るものはたくさんあったのだと、思います。
本当に本当に、お疲れ様でした。

三沢光晴、小橋健太vs川田利明、田上明 [全日本プロレス]
1995年6月9日の世界タッグ選手権試合、この年のベストバウト。


三沢vs小橋 GHC 2003年


三沢 vs 川田 1999.7.23 三冠戦



以下は産経ニュース ノア・三沢さん死す…プロレス試合中頭部強打   
からの引用


三沢、壮絶マット死!! 13日午後8時40分ごろ、広島市中区基町の広島県立総合体育館グリーンアリーナで開催された「プロレスリング・ノア広島大会」で、同団体の社長、三沢光晴選手(46)が試合中に相手の技を受け頭部を強打。救急車で市内の病院に運ばれたが、同10時10分に死亡が確認された。ジャイアント馬場が大腸がんに倒れ、アントニオ猪木が引退した後の日本マット界をけん引したエースが、衝撃の“殉職”となった。
 マット上で大の字となった三沢がピクリとも動かない。2300人、満員の観衆による「ミサワコール」にも立ち上がることはできなかった。
 「社長!!」「社長!!」
 選手、関係者が呼び掛けたが、三沢に反応はない。専属トレーナーが心臓マッサージを繰り返す。さらに、「観客の方でお医者さんはいませんか!?」というリングアナウンサーの要請でマットに上がった医師が、自動体外式除細動器(AED)で蘇生を試みた。
 すぐに救急車が手配され、広島大学病院(広島市内)に搬送。県警広島中央署は「病院から三沢選手が心肺停止状態と連絡があり、署員が向かった」と説明したが、午後10時10分、死亡が確認された。死因は不明。6月18日、47歳の誕生日を目前にしての悲劇だった。
 三沢は13日夜、メーン・イベントのGHCタッグ選手権(60分1本勝負)に潮崎豪とのタッグで出場。第17代王者の斎藤彰俊、バイソン・スミス組に挑戦した。リングサイドで観戦していたという会社員男性(35)=広島市=によると「この日の三沢は精彩を欠いているように見えた」という。
 そんな中で、アクシデントは起きた。ゴングから25分過ぎ、斎藤の打撃技を顔面などに受けていた三沢は、さらにバックドロップを同じ斎藤から食らう。本来、後頭部をマットに打ち付ける技だが、この一撃はかなりの急角度で落下。ほぼ脳天から落ちた。

ダウンした三沢に、レフェリーが「動けるか」と聞くと、三沢は「動けない」と答えたが、すぐに意識を失った。
 試合は27分03秒、レフェリー・ストップ。斎藤、バイソン組が3度目の王座防衛となったが、ただならぬ状況に会場の熱気は次第に冷気となり、ショックで泣き出す女性ファンの姿もあった。
 三沢は全日本プロレス時代、2代目タイガーマスクとしてデビュー。捨て身のファイトで多くのファンを魅了した。本名の「三沢光晴」となって、幾度となく名勝負を演じた川田利明(フリー、足利工大付高の1年後輩)との「3冠ヘビー級選手権」では、テレビ解説を務めていたジャイアント馬場(故人)が、熱過ぎるファイトに泣いてしまった逸話もある。
 「受け身の天才」と称される一方で、試合中のけがも多く、首や腰にいつも爆弾を抱えていた。13日午後11時過ぎ、「三沢死亡」の衝撃的ニュースに、病院前は報道陣でごった返した。また、県警広島中央署が団体幹部や対戦選手から詳しい事情を聴いている。