馬車郎の私邸

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4世紀前半~半ばのローマ帝国の話

2007年06月23日に書いたもの。
以下原文まま。

先週の木曜日、ドハマリ授業の2回目のプレゼンをやりました。
いつもけっこうダメ出しきつい教授が、「まあ、なかなかよく調べてある。」と言ってくれました。わーい(⌒-⌒)
ツンデレなのでしょうかf^^;

題材は、前回はスラで、今回は4世紀のローマ帝国。
わりとマイナーな2人の皇帝について。
画像は、左2つが、コンスタンティウス2世、一番右がユリアヌス帝です。

教科書では、コンスタンティヌス帝のことはけっこう重要ポイントだけど、その次の2人の人はろくに記述がないんだよなぁ...
あっても「背教者ユリアヌス」、はい終わり、みたいな(笑)
まあ、何と言うか、教科書には書いてなくても、当時の人もいろいろと大変だったのです。

[以下レジュメ]
コンスタンティウス2世とユリアヌス
                                           
・コンスタンティウス2世(在位337~361)
   
 コンスタンティヌス1世の3人の息子たちは親族を粛清し、帝国の分割統治を行なった。
その後340年に、長兄コンスタンティヌス2世が、末弟コンスタンスの領土を奪うべく侵攻したが、敗死。
西方3分の2をコンスタンスが、東方3分の1をコンスタンティウス2世が支配することになる。
両帝は北方蛮族やササン朝ペルシアとの抗争に明け暮れ、この状態が340年から350年まで続いた。
しかし、コンスタンス帝はマグネンティウスが反旗を翻したことにより殺害される。さらに老将ヴェトラニオも正帝を称した。
コンスタンティウス帝は背後の安全を確保するため、ペルシアと休戦協定を結んだ。
これは容易に成立したが、というのもペルシア王シャープールは城塞都市ニシビス包囲に3回も失敗し戦局は劣勢であったし、また王国東北部に蛮族が侵入したためである。
またコンスタンティウス帝は、前述の粛清で生き残っていたガルス(ユリアヌスの兄)を副帝に任命し、東方への備えとした上で、二人の帝位簒奪者討伐に向かった。
ヴェトラニオは早々に降伏し、マグネンティウスは敗れたが、この内戦でローマ軍は実に5万4千もの戦死者を出し、弱体化した。
この後、無能な副帝ガルスは残忍な統治ゆえ処刑され、355年、弟のユリアヌスが副帝に任命される。

・ユリアヌスの生い立ち
 父を粛清で殺された後、6歳から20歳近くまでを兄とともに事実上軟禁状態で育つ。
このとき、とりわけギリシア、ローマの古典をよく読んだ。
そのことが、表面上はキリスト教徒であったが、本心はギリシア・ローマ古来の神々を崇拝し、後に異教復興の政策を実行する土壌となったようだ。
ニコメディア、ペルガモン、アテネで哲学、特に新プラトン主義を学んだ。

・コンスタンティウス2世とユリアヌスの共治(355~361年)
3年間にわたる内戦で多くの将兵が失われていたため、ライン川、ドナウ川を越えて多数の蛮族が領内に侵入した。
コンスタンティウス帝はドナウ川戦線に向かい、一方、副帝となったユリアヌスは蛮族が荒らしまわっていたガリアに少数の兵を与えられて派遣された。
ユリアヌスは少ない兵力ながらも蛮族を撃退しつつ、ケルン(Colonia Agrippina)、マインツ(Moguntiacum)などの都市を奪回した。
そして、ストラスブール(Argentoratum)近郊で、1万3千の兵力で3万5千のアラマンニ族に大勝し、さらにフランク族などをガリアから一掃することに成功した。
そして荒廃した主要都市や農地を再建すべく内政に力を入れた。
当時のローマ帝国は、国家があらかじめ決めた額の税を国民から徴税する方式になっていたので、官僚機構が肥大していた。
そのため、ユリアヌスは出費の節約と無駄の解消に努め、税の徴収に公正を期した。
また、減税を行なって、労働意欲の向上を促した。
さらに、ドーヴァー海峡の海賊を一掃してブリタニアとの連絡を回復し、数度にわたりライン川を越えてゲルマン人の本拠地に攻め入った。
こうしてユリアヌスは、軍と国民に絶大な人気を博したのである。

 コンスタンティウス帝もドナウ川の北へ蛮族を撃退し、ローマで凱旋式を行なった。これはローマでの最後の凱旋式だった。
再び、ペルシア王シャープールは動き出し、多大な犠牲を出しながらもアミダを攻略してシリア属州に迫った。
これに対しコンスタンティウス帝は東方に遠征するに当たり、ユリアヌスに精鋭兵士を供出するよう迫ったため、ユリアヌスは苦境に陥った。
これを不満に感じた軍隊は、ルテティア(パリ)でユリアヌスを正帝に擁立した。
こうして、二人の皇帝は対決必至となった。
ユリアヌスは電光石火の強行軍でドナウ川の軍団を味方につけ優位に立ったが、コンスタンティウス帝が45歳の若さで病死したため、内戦は回避された。

・ユリアヌスの正帝時代(在位361~363年)
 こうしてただ1人の皇帝となったユリアヌスは首都コンスタンティノポリスに入城した。
このころから、彼はひげを伸ばし始め(キリスト教徒にとってひげは異教徒の様相)、異教崇拝も公言した。
また、先帝の悪徳である肥大化した宮廷の人員を削減し、宦官を排除した。
わずか数ヶ月の首都滞在のうちに大量に法律を作り、行政法だけでなく異教復興に熱意を燃やした。

・アンティオキア滞在とペルシア戦争
 対ペルシア戦の根拠地にアンティオキアを選んだが、ここで数々の問題にであった。
作物の不作で食糧不足になっていたので小麦を輸入したところ、この都市の有力者たちはそれを買占めたため市民に小麦がいきわたらなかった。
このことでユリアヌスは有力者たちに激昂し、深刻な対立を起こした。
また、市民たちはキリスト教徒が多く、かれの異教復興政策に対して反感を買っていた。
そこでかれは、「ミソポゴン」(ひげ嫌い、の意)という風刺的散文を書き、アンティオキア市民たちへの軽蔑をあらわにした。

 ペルシアとの戦争に向かったユリアヌスは戦闘を優勢に進め、クテシフォン郊外の戦いで大勝した。
その後第二軍と合流すべくティグリス川に沿って北上したのだが、戦闘で槍が刺さり命を落とす。
謀殺の説もあるが、真相はわかっていない。

・両帝の宗教政策の比較
 ミラノ勅令(313年):キリスト教公認、全ての宗教は平等とされる。

コンスタンティウス帝:キリスト教を優遇。公費で教会を建造、聖職者、教会関係者を非課税にした。また、異教の祭儀を禁止し、神殿を閉鎖させた。
ユリアヌス帝:帝国の宗教状態をミラノ勅令に戻そうとした。全てコンスタンティウスとは反対の宗教政策を行い、異教復興を目指したがわずか1年9ヶ月の短い統治のため、目的は達成できなかった。

・ユリアヌスの著作
 「ミソポゴン」「ガリラヤ人どもを駁す」「諸皇帝論」などの多数の著作、書簡が現存。

参考文献:
「THE WORKS OF THE EMPEROR JULIAN Ⅲ」THE LOEB CLASSICAL LIBRARY
「背教者ユリアヌス」G.W.バワーソック、思索社
「ローマ帝国衰亡史第3巻、第4巻」E.ギボン、ちくま学芸文庫
「ローマ帝国歴代誌」クリス・スカー、創元社