馬車郎の私邸

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属州ガリア(今日のフランス地域)のローマ化について

「ガリアは全部で三つの部分に分かれており、その一つにはベルガエ人が、もう一つにはアクィーターニア人が、三つ目には彼ら自身の言葉でケルト人、我々がガリア人と呼ぶ連中が住んでいる。これらは皆、言語、制度、法律において異なっていた。ガリア人は、ガロンヌ川によってアクィーターニア人と、マルヌ川とセーヌ川によってベルガエ人と分かれていた。」

 上記の引用がカエサルの「ガリア戦記」の冒頭部分である。今日のフランスにほぼ相当する「ガリア」の起源は、紀元前4世紀にさかのぼる。イタリア半島北部に押し寄せて制圧した部族集団を、当時は小さな国家を形成するに過ぎなかったローマ人は「ガリア人(Galli、ガッリー)と呼び、ガリア人の居住するイタリア半島北部が「ガリア」(Gallia 、ガッリア)と呼ばれるようになった。ローマ人が領土を拡大するにつれ、ガリア人の同系統の諸部族がアルプス山脈の向こう側の西方・北方にも多数住んでいることが知られるようになり、それらの地域も「ガリア」に含まれるようになっていった。やがてイタリア半島北部は、ローマに制圧されてその属州となった。イタリア半島北部は、ガリア・キサルピナ(Gallia cisalpina 、キサルピーナ、アルプスのこちら側のガリア)またはガリア・キテリオル(Gallia Citerior 、こちら側のガリア)と呼ばれた。この地域は、ローマ帝政初期には「イタリア」本土に編入されて、「ガリア」から除外されるようになった。

 これに対して、アルプスの西側・北側のガリアはガリア・トランサルピナ(Gallia transalpina 、トラーンサルピーナ、アルプスの向こう側のガリア)またはガリア・ウルテリオル(Gallia Ulterior 、向こう側のガリア)と呼ばれた。この「ガリア」は、ローマ共和制末期から帝政期にかけては、おおよそピレネー山脈、地中海、アルプス山脈、ライン川、大西洋に囲まれた地域を指し、その大半は森林地帯であった。現在「ガリア」と呼ばれるのは、この地域であることが多い。

 また狭義には「ガリア・トランサルピナ」はガリア戦争以前にローマの属州であったフランス南部を指す。それより北方のローマ化していなかった地域は、ガリア人の長髪の習慣からガリア・コマタ(Gallia Comata 、コマータ、長髪のガリア)と呼ばれていた。
 
 このケルト人とのローマ人の最初の大きな事件は、前390年に起こった。すなわち、アリア河畔の戦いでローマ軍は大敗し、ローマは略奪の限りを尽くされたのである。このとき引き上げたガリア人は、ポー川流域に先に進出していたエトルリア人を制圧して定着し、今日の北イタリアにあたるこの地域は、「ガリア・キサルピナ」(アルプスのこちら側のガリア)と呼ばれることになる。

 そして、地中海世界に覇権を広げるローマは前2世紀後半までに、ガリア・キサルピナを征服し、アルプスを越えてガリア・トランサルピナ(アルプスの向こう側のガリア)にも、干渉するようになる。ローマはマッサリア(現マルセイユ)と長く同盟を結んでいたが、このマッサリアと周辺部族の抗争に介入し、マッサリア側に立って勝利。前121年、地中海沿岸地域、ガリア南部を属州化した。

 以降、ゲルマン系の諸部族、例えば、キンブリ族、テウトニ族、スエヴィ族や、ダキア人たちが、ケルト人を脅かした。そして、前1世紀半ば、ゲルマン人の圧迫を受けて、へルウェティイ族は移住を決意した。へルウェティイ族は南西に向かい、付近のケルト人も吸収して、その数は36万にものぼったという。しかし、この状況をローマの総督が黙ってみているわけがない。当時のガリア南部の総督はカエサルだった。カエサルはこれを撃破し、生き残ったものたちは故郷に帰還させられた。

 さらに、ヘドゥイ族が、ゲルマン人の脅威から、ローマに救援を要請していた。これは、カエサルにとって防衛上の観点から見過ごすことの出来ない問題であった。また、ガリア全体の征服という事後的な結果からも、格好の口実でもあっただろう。北方からガリアを圧迫していたアリオウィストゥス率いるゲルマン人との戦争になり、これをも打ち破った。続く数年間で、カエサル率いる軍団は現在のベルギー地域へと転戦してベルガエ人や、ゲルマン人を破ってゲルマニア(現在のドイツ)の一部までを制圧、ガリア西部も制圧し、さらにはブリタニア南部にも攻撃を加えた。

 しかし、紀元前54年頃からガリア諸部族の反抗が始まり、紀元前52年にはウェルキンゲトリクスを盟主とするガリア人の同盟は、カエサルの軍団を前後から包囲して窮地に陥れる。窮したカエサルは、ウェルキンゲトリクスの居城であるアレシアを攻囲した。一時はカエサル自身もかなり危うい状況だったが、やがて後方から援軍が来着し、形勢は逆転した。ガリア諸部族は敗走し、ウェルキンゲトリクスは投降した。彼はローマへ護送され、後年処刑された。

 征服されたケルト人の豪族はカエサルによって厚遇され、中にはローマ市民権を与えられる者もいた。これは戦後のガリアを統治するための政策で、ガリアをローマの統治機構に組み入れることが目的だった。おかげで、この後ローマは内乱状態に突入するが、征服されたばかりのガリアは反旗を翻さなかった。

 その後、アウグストゥスは統治機構を整備した。在地の豪族は、徴税と秩序の維持に努める限り、かなりの内政の自由を認められていた。ガリア・コマタの地域は、3つに分割された。ピレネー山脈からロワール川に至る地域をガリア・アクィタニアとし、ブルターニュ地方とドーヴァー海峡に至る地域をルグドゥヌム(現リヨン)を中心にガリア・ルグドゥネンシスとし、ライン川にいたる残りの地域をガリア・ベルギカとした。また、ガリアはゲルマニア遠征の拠点となったが、ゲルマン人の侵略はなくなり平和を享受した。前線がライン川に移動したので、ガリア4属州にいるローマ軍は、ルグドゥヌムに駐屯するわずか1000人だけであった。

 地中海沿岸、現代のプロヴァンス地方にあたる、ガリア・ナルボネンシス属州では、早くからローマの支配に服し、退役兵の入植も進んでいてローマ化が著しく進んでいた。この地域の都市には、碁盤目状の街路が走り、中心部には公共広場(フォルム)があり、神殿や凱旋門、公衆浴場や、円形劇場も建てられ、都市景観のローマ化が進んだ。プリニウスは「博物誌」で、「属州というよりは、むしろイタリアである」と評している。

 一方、ナルボネンシス以外の3属州では、ローマ化は緩やかだった。こちらは殖民都市の建設は少なかった。といっても、クラウディウス帝は属州の有力者へのローマ市民権付与に熱心であり、こちらの3属州の出身者にも元老院への参入を認めた。また、退役軍人は、ローマ市民権を得て帰郷したので、着実にローマ市民権所有者は増えていった。

 交通網も整備され、商業、農業いずれも活発となった。特にぶどう酒生産や、製陶業、毛織物が盛んだった。ライン川防衛線の後方基地としての役割を果たしたし、その肥沃な土地はガリアの1200万の人口以上の人間を養い、なおかつ穀物は他の属州に輸出された。ガリア産ぶどう酒も輸出され、ブルディガラ(現ボルドー)にはブリタニアからも商人が渡来した。

 ガリア人にラテン語の使用は強要されたわけではなかったが、様々な管理行政上の理由などから、ラテン語が使用される機会は増えていった。ケルト語はだんだんすたれ、ラテン語は俗語化されて民衆に浸透していった。とはいえ、確かに都市を中心とする上層民は早くからラテン語になじんでいたが、農村部では元々の母語であるケルト語しか話せない下層民も多かったであろう。

 しかし、繁栄したガリアも、マルクス・アウレリウス帝の治下よりゲルマン人の侵入とともに衰え始め、それが激化するにつれて荒廃していった。ディオクレティアヌス帝やユリアヌス帝のもとで復興がなされたこともあったが、体勢はローマ帝国崩壊に向かい、ガリアの支配は侵入した部族のもとへと移った。

 そして、5世紀初頭の時代にガリアは事実上放棄され、イタリアに部隊は撤収した。475年には、孤立しながらも西ゴート族に抵抗していたオーヴェルニュ地方は割譲され、ローマのガリア支配は終焉を迎えたのである。