馬車郎の私邸

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覇権国家 大英帝国の植民地政策

 覇権国にとって、過去の支配政策に対する批判は避けられないものである。たとえ当初は寛容な態度をとっていても、うまくいかなくなれば武力で押さえつける統治にならざるを得ない。その意味で、19世紀イギリスの植民地政策が、現地の発展自立と強引な近代化の間で揺れ動くのは必然である。

 大英帝国は、海を通じて支配を行う、海の帝国だ。ここで注目すべきは、ブリテン島は植民地と陸続きではないということだ。つまり、“内と外”という意識が発生する。植民地が攻撃されたとして、イギリスが軍を出動させたとしても、それは自国の利益を保全するためであって、本土の安全保障それ自体ではない。一方で陸の帝国であるローマ帝国は、イタリア半島から地中海沿岸に放射円状に領土を広げ、征服地は属州として帝国の内部の機構に、言い換えれば運命共同体として取り込んだ。覇権国の責務は、何よりも安全保障であった。この意味で、ローマ帝国は覇権国の責務を果たしたといえるだろう。

 ブリテン島と“それ以外”に、本質的に分断されているのが、本土が島である大英帝国の特徴である。大英帝国の中心にいる“王”はあくまでイングランドとスコットランドの王であり、多民族国家の長としての皇帝ではないのだ。ローマ帝国が、イタリア半島以外の出身の皇帝を多数出したのとは異なる。大英帝国は、覇権国という意味での帝国でしかなかった。

 本土と植民地という分断意識は、たとえば“有益なる怠慢”という言葉さえ生み出したことがある。互恵関係とは程遠い。搾取は対象を客体化するからできることだ。植民地は帝国の一部ではなく、本土の人間からは、対象物として見られた。このように、本土と植民地は主体―客体という関係になっている。このことが、イギリスの植民地支配の根底意識となっている。

 国際貿易における植民地の立場は、宗主国イギリスのある種確信犯的なやり口で従属させられた。典型的な一例は、インド・イギリス・清の三角貿易だろう。また、“隣の島”であるアイルランドでさえ飢餓輸出させてしまうにいたっては、経済的優位による搾取というより、むしろ失政かもしれないけれども、本土にとって支配した地域は対象物でしかないという意識が垣間見える。

 では植民地はイギリスに支配されたことで、いかなる利益を得たか。強国に支配されることは、強国の陣営に属すことであり、たとえいくらか搾取があるにしても、一定のメリットがなかったわけではないだろう。一方で今なお残る、現在まで残った強みのひとつは、元イギリス植民地においては英語である。(むしろ米語?)共通の文化圏とコミュニケーションの土壌をもつことは、イギリスに代わって覇権国となったアメリカの時代には大きな強みだ。カナダ、オーストラリアだけでなく、成長著しいインドとシンガポールの経済発展の一要因となっている。イギリスとて、金融立国として世界中からマネーを集め仲介し運用するには、英語は大きな強みであろう。
 しかし、結局のところ、イギリスの議会にインド人やオーストラリア人など植民地代表の議員はいなかった。植民地はあくまで下部構造だったのである。この点、古代のローマ帝国は、属州出身の議員どころか皇帝さえいた。ローマ帝国は属州を帝国の一部として、有機的に融和的に中央に結びつけたが、大英帝国では本土と植民地は意識の上でも切り離されていたし、一つの国家=帝国としてまとまっていたわけではなかった。ここがempireという言葉に内包された“普遍”帝国と“覇権”帝国の違いである。

 イギリスの植民地政策について、一時期を切り取って評価することは困難だ。同時代の評価と事後的な評価は切り離さねばならない。また、他国の植民地政策との相対的な評価と、善悪抜きに政策として成功しているかという政治技法としての絶対的な評価も考慮を要する。

 しかし、一ついえることは、イギリスは植民地支配の先行者としても、近代史における強者としても、ほかの列強に比べ多大な利益を得たことである。ドイツ、イタリア、日本などは後発の挑戦者であり、先行者の利益に挑戦したが、結果として敗者となった。そして何より敗者は“not exclusively our fault”とはいえないくらい、責任と過失を追及されるのである。