馬車郎の私邸

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ローマとカルタゴのポエニ戦争について

いい時代になったものだ。R. Bosworth Smithの「ROME AND CARTHAGE(ローマとカルタゴ)」は紙の本で買うと3000~8000円するのだが、なんとKindle価格は119円。ポエニ戦争にご関心がおありのお方で英語の勉強をしたい方はぜひとも原著も読まれたし!ポエニ戦争については、様々な良書が出ているがそうした専門書に行く前に、ぜひともこの戦争のあらましを知っておいてもらいたい。

 ローマとカルタゴのポエニ戦争は、ローマの戦争ではもっとも議論されている戦争の一つである。1回目の戦い(B.C.264-241)は、カルタゴの数回のイタリア本土襲撃を除いては、主にシチリア島周辺で戦われ、カルタゴ艦隊の壊滅で終局を迎えた。カルタゴは巨額の賠償金を払うことになり、シチリア島から撤退することになった。

 だが2回目の戦争(218-201)はかなり違っていた。カルタゴは戦間期にヒスパニアに領土を拡大し、そこを根拠地としてハンニバルはアルプス山脈を越え、イタリア侵攻の軍を進発した。2年以内に、トレビア、トラシメヌス、カンネーでローマ軍に多大な勝利を収めた。結果として、タレントゥム、カプア、シラクス等南イタリアの諸都市はハンニバルの手に落ちた。
 
 しかしハンニバルは結局のところ203年の冬までイタリア半島の先端から出ることができなかったのである。彼の最後の勝利のチャンスも、弟ハスドルバルの敗北により水泡に帰した。その後カプア、シラクスも奪回され、202年のザマの戦いで、後にアフリカヌスと呼ばれるスキピオに敗れるのである。戦争終結後カルタゴは領土を限定され、賠償金が科された。、ローマの同盟国ヌミディアとの諍いが起こり、それが原因で結局は滅ぼされた。(146年)

 この3つの戦争に関連する史料として、最初の戦争は、ローマの歴史家ファビウス・ピクトルがおそらくは書き残した。そして同時代人ではなかったが、ギリシア人の歴史家ポリビオス。作品は失われたが、ファビウス・ピクトルを引用していた同時代のアグリジェントのフィリヌス。ほかにはリヴィウス、フロルス、エウトロピウス、オロシウス、さらに時代はずっと後になるがカシウス・ディオ、ゾナラスもあげられる。これらの歴史家の引用する史料は、ほぼすべて二次的なものか、それより悪かった。さらには、なぜ出来事が起こったのかを確かにすることはより困難である。ローマやカルタゴの元老院の議論を聞いたはずはなかったし、双方の指揮官の考えを知る史料などほぼないに等しいからだ。

 ポエニ戦争について続いている主な議論は、史料の限界を反映している。ハンニバルが通ったアルプスの道すら、推測するしかないのだ。また、ローマ側の史料しかなく、カルタゴ側の史料は現存していない点も問題だ。しかし、一体なぜ、ローマ人は艦隊もないのに、数世紀にわたり良好な関係にあったカルタゴと戦争をすることになったのか?ポリビウスの答えは、カルタゴのシチリアへの支配権拡大という脅威と、そして強欲もまたその理由であったとしている。一方で、現代の研究者はそれにローマの将軍が軍事的栄誉を求めたという一項を付け加えるであろうが、強欲がローマ人の考えの要素であると受け入れるほど熱心すぎるわけでもない。
 
 カルタゴはヒスパニアの征服を行ったが、ローマはあまりその動向には関心を払わなかったようである。ハミルカルによってヒスパニアの征服と植民地化が開始され、彼の死後は娘婿のハスドルバルが事業を継続した。226年、ハスドルバルはローマとの間にエブロ川以北には進出しない合意を交わした。221年、ハミルカル・の息子ハンニバルが後継者となった。ポリビウスによればハンニバルは父ハミルカルにローマに対する怒りと憎しみを植え付けていたとするが、真相は定かではない。219年、ハンニバルはサグントゥムを攻撃した。サグントゥムはエブロ川以南の都市であったが、ローマとの同盟を結んでいたため、ローマは攻撃停止を求める使節団をカルタゴに派遣した。しかし、両者が交渉をしている間にサグントゥム陥落の一報が到着、ローマは宣戦を布告した。
 
 ハンニバルはイタリアで戦うという考えを保持し、ローマとその同盟国を倒すことを決心していた。だが彼の戦略はローマ自体を倒すことではなく、その同盟国を分断することであった。一度ローマの近くに接近したことはあったが、それはローマの軍勢をカプアから引き離す目的であった。結果として彼の戦略は失敗であったが、その業績を過小評価してはならない。
 
 しかしなぜ、カルタゴはローマに負けたのであろうか?その1つ目の理由は、ローマがはるかに機動力に優れた軍を持っていたことである。ローマ市民は全員が軍役の義務があったし、同盟国から軍を徴収することもできたが、一方でカルタゴ市民には軍役の義務はなかった。そのためカルタゴは戦力を傭兵に頼らざるを得なかったのである。第二次ポエニ戦争の3年目にはローマはすでに12万もの兵士が殺されたか捕虜になったし、イタリアとヒスパニアで重大な敗北を喫していたにも関わらず戦争を続けることができた。また、戦争中期には10万ものローマ人およびイタリア人が動員され、もしかすると5万人が余剰戦力になっていたかもしれないのである。このことが意味するのは、ハンニバルと戦い失地を奪回しつつも、ヒスパニアでの戦争を維持し、シチリアやギリシアのカルタゴ同盟国に反撃を加えることができたということである。

 2つ目の理由は、ローマの海上戦力である。これによりシチリアのカルタゴ軍、ハンニバルに対する、物資、人員の補給を妨げることができた。ハンニバルがカルタゴ本土から受け取った兵士はわずか4000人である。

 3つ目の理由は、ローマの政治機構の強さであった。戦争遂行中にも常態の選挙を維持したことで、多数の有能な人物が指揮を執った。最も印象的なのは、元老院の全体としての戦略の把握である。たとえば、ハンニバルがイタリアに接近しているにも関わらず、ヒスパニアに軍団を派遣した執政官の決断だ。一方でカルタゴの指導者と元老院は、戦略はばらばらで、将軍に指揮をまかせっきりであった。ローマの将軍が元老院の戦略に従い行動するのとは対照的である。

 ポエニ戦争の結果として、ローマは力を強めただけではなく、帝国として領土を拡大していった。後に市民軍は、ガイウス・マリウスの兵制改革により、職業軍へと変わる。(207年)また、長期にわたる戦争はイタリアの人的資源と農業の荒廃をもたらした。このことがグラックス兄弟の改革やいわゆる同盟市戦争へとつながる。そして、ローマの元老院の構成員は、時には武力で変革に抵抗し、ついに共和制は武力によって破壊されたのである。