馬車郎の私邸

漫画、アニメ、ゲーム、音楽、将棋、プロレス観戦記など「趣味に係るエッセイ・感想・レビュー記事」をお届けします!ある市場関係者のWeb上の私邸

ベトナム戦争とカウンターカルチャーの関係性

 ベトナム戦争とは、1960年代初頭から1975年4月30日までベトナムの地で繰り広げられた、南ベトナムと北ベトナムとの武力衝突である。しかし、戦争の実体は南ベトナムを支援したアメリカ資本主義陣営と、北ベトナムを支援したソ連、中国の共産主義陣営との政治戦略的な戦争の色彩が極めて強い戦争であった。アメリカは、ケネディ、ジョンソン、ニクソンと3代の大統領が関与し1,500億ドルの巨費とピーク時には年間54万人の軍人を派遣し、国の威信をかけて挑んだ戦争であった。

 結果はといえば、北ベトナム側の勝利に終わりアメリカ軍はベトナムの地から撤退せざるを得なくなった。この戦争には、アメリカからの経済援助とひきかえに、韓国、タイ、オーストラリア、ニュージーランド及びフィリピンからも兵士を調達して派遣した。この戦争の犠牲は大きく、撤退したアメリカ軍でさえ5万8千人以上の戦死者を出しました。南北ベトナム人民に至っては200万近い人が犠牲になったといわれている。そして、大量に空中散布された枯葉剤の後遺症(特にダイオキシンの影響)が、四半世紀近くたった今でも残っている。

 この戦争の特徴の一つに、戦争の前線が存在しなかったことがあげられる。戦闘は、前線ではなく南ベトナム領内のあちこちで発生した。北ベトナム側は、米軍およびマスコミがベトコンと呼んだ”南ベトナム解放民族戦線(NLF)”を中心に南ベトナム領土内でゲリラ戦を展開していました。敵を待ち伏せ、短時間の攻撃を仕掛けた後さっと引き上げるといった戦略である。軍隊同士の正面切った戦いではなく、地の利を活かした小競り合い的な戦闘が多かったのだ。これは、NLF側の知恵であり、軍備を湯水の如く投入してくるアメリカの近代戦争と真っ向から戦ったのでは勝ち目がないとみてそのような戦略をとった。正規軍とは違い、ゲリラは、負けなければその目標は達成される。このように、いつどこからともなく仕掛けられる戦いに、前線のアメリカ兵は苦戦し、ついには戦力を喪失し、軍隊の士気の低下を招いた。

 もう一つの特徴に、報道が自由になされたことがあげられる。ベトナム戦争では、カメラマンなどの報道関係者はどこへ行くのも自由であった。その結果、大勢のカメラマンがベトナムを目指し、報道がなされた。1960年代の後半には全世界が注目していた戦争であったし、アメリカ国内の状況に大いに影響を与えた。

 合衆国の国民が、ベトナムの情勢に関心を持ち始めたのは、64年のトンキン湾事件以降、北爆開始と地上軍の派遣が始まったときからである。徴兵の対象となる学生たちからは、戦争に反対する声も上がっていた。世論の戦争支持は6割程度であったが、65年の4月には首都ワシントンで軍の撤退を要求する大規模な集会が開かれ実に2万5000人もの人が参加した。64年の10月には、カリフォルニア大学バークレイ校において「フリー・スピーチ運動」が始まった。この運動は、64年の夏休みにミシシッピ夏期計画に参加した学生が、キャンパスでミシシッピにおける人種差別の実態を告発、糾弾する演説をやろうとして、大学側から禁止されたことに端を発する。これに抗議して大学本部前に800人もの学生が座り込みを行うも逮捕され、学生のストライキによって大学は2ヶ月にわたり機能しなくなった。結局は、学生の政治活動の自由化、大学管理への学生参加などが認められることとなった。

 当時の大学は、第一ベビーブーム世代に属する青年たちが通い、また進学率も飛躍的に高まっていた。学生たちが急増した結果、マンモス大学が増え、ある「フリー・スピーチ」運動の指導者は教育工場と非難し、学生たちの異議申し立てが注目を集めつつあった。さらにはこの時期、若者を中心に一種の風俗やライフスタイルにおいての変化が浸透しつつあった。徴兵を拒否し、長髪にひげを伸ばし、破れたジーンズをはくという自由なライフスタイルを好み、親による支配統制を嫌い、「ドロップアウト」し、各地に仲間と一緒に共同生活を開始していた。マスメディアは彼らのことをヒッピーと呼び、興味本位の報道を行ったが、そのファッションやライフスタイルは同世代の若者の間に急速に広がっていった。ベトナム戦争が拡大するにつれて、「30歳以上の大人は信用するな」というキャッチフレーズがしばしば語られた。戦争や人種差別を大人たちの既成文化がもたらすものとして拒否し、若者独自の「カウンターカルチャー」(対抗文化)」を創造しようという機運が広がっていった。それは感性の開放を求めてマリファナやLSDなどの幻覚剤を利用したことにもロックやフォーク・ミュージックの流行にも表現されていったのである。

 結果として、1964年に始まる大義なき戦争といわれるヴェトナム戦争は、 全米の若者が自国アメリカのあり方について、また当時の民主主義について真剣に考えるきっかけとなったといえよう。そして、すべての人種が自由を謳歌できないという事実も、同時期の問題として存在した。徴兵制や公民権などの解決すべき難問があった。そこからたち現れた潮流はカウンターカルチャーという大きなムーブメントとなって、アメリカを動かすことになる。 反戦や人種差別の撤廃を主張した学生運動が起因となりカウンターカルチャーは全米の若者を巻き込んだのである。1
 1969年には伝説となっているウッドストックがサンフランシスコ郊外のオルタモントで開催されるが、このカウンターカルチャーの祭典ともいえるイベントが、一連のカウンターカルチャーを終焉へと向かわせてしまう。愛と平和がスローガンだったフェスティバルでの殺人事件。しかも被害者は黒人だった。ラブ&ピースとも人種差別への批判とも矛盾するこの事件を境に、若者の熱意は急速に冷めていく。大きな主張は個々のパーソナルな問題へと移り、フリーセックスやドラッグなどの快楽的な楽しみへと流れていった。 そして1975年には攻撃対象だった、カウンターカルチャーの対立事項たるヴェトナム戦争が終結の方向に進むとともに、カウンターカルチャーも消滅していったのである。 

 参考文献:
「分裂の世界史」A.L.サッチャー、祥伝社黄金文庫
「世界歴史大系 アメリカ史2」山川出版社
「世界を不幸にするアメリカの戦争経済」ジョセフ・E・スティグリッツ、徳間書店