馬車郎の私邸

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時に言わない"何か"を巡って人は葛藤する―感想:「とらドラ!」第8巻、竹宮ゆゆこ、電撃文庫

アニメの難しいところは地の文がないため、感情の表現が外に現れるもの(表情、声、動き、間)に大きく依存することだ。もちろん、登場人物が内省する場面を用意しても良いのだが、ほどほどの長さにしないと映像作品としてのテンポが殺されてしまう。バランスをとるのに、まさに痛し痒しといった事態に陥る。

「とらドラ!」のアニメはこの種のラブコメ作品としては、良く作られたほうに属すと私は思う。ただし、10巻ある小説本編を25話にしたのだから、単純計算で1巻あたり2.5話計算だ。初見で見た分に違和感はなかったが、原作小説の美味しい部分をやや表現しきれなかった部分もあった。それは決して鶏肋ではなくて、三角関係において重要な、心の葛藤だ。

たとえば歌舞伎など、あらゆる劇の重要な構成要素は、心の葛藤の表現だ。小説という媒体は、心の葛藤を、繊細に丁寧に詳らかに表現するのに適している。登場人物と同じ早さで、読者は気持ちを追う事ができるからである。アニメは動きと声が魅力である一方、それは視聴者からは外部的なものであるため、没入度においては小説に軍配が上がる。すなわち、人物の心に寄り添いやすいのである。
(以下、斜体部は本編からの引用)
実乃梨の真意を確かめる。すなわち、櫛枝実乃梨は高須竜児と。本当に付き合いたくないと思っているのか?その考えは逢坂大河との共同生活をやめることで変わりうるのか?それを尋ねて、答えをもらう。できることなら、イブの夜に遮られた想いも伝える。そうして微妙な色合いを帯びてしまった二人の関係をやり直す。竜児にとっては、それこそが、この修学旅行の目的であった。(中略)
まだ言うか――意地の悪い気分のままに、大河と北村の初詣のことを言ってやろうかとも思うが、竜児はギリギリで口をつぐむ。別に喧伝して歩いたって意味はないのだ。ただ、実乃梨がそれを知らないということが動かぬ事実としてあるというだけだ。

主人公・高須竜児と想い人の櫛枝実乃梨は、自身の気持ちに加え、共通の友人である逢坂大河をめぐって入り組んだ思いを抱えている。この小説は登場人物が少ないだけに、細やかな気持ちのすれ違いや遠慮、何を知ってて知らないのか、などといった点の描写から話が展開していく。そのため、主人公の気持ちをなぞりつつも、他の人物の気持ちを慮って読むにはちょうど良く、気持ちに寄り添いながら読む作品の白眉と言えよう。

想いの残滓の塊ともいうべきヘアピンをつけている実乃梨を見て、歯車が完全に壊れたことを知ってしまった。合わないモンを無理に噛ませようとしたから、ほら見ろ――ぶっ壊れてしまった。このままでいたい。変わりたくない。実乃梨はそう言う。みんなこのままでいられたらいいのに、ずっとこのままでいいのに、と。そうするためには、そんな実乃梨の歯車に合わせるには、そのヘアピンが一体どこから来た物体なのか、隠し通して踏みつけて、事実を殺してしまわなくちゃいけないのだ。自分を殺さなくちゃいけないのだ。実乃梨が繰り広げる「何事もなかったワールド」に付き合って、ふられたことなど全然何でもなかったと笑い飛ばし、もう忘れちゃったぜー、と、実乃梨と一緒にそういう顔をしなくてはいけないのだ。でも、そんなことはできない。だって、竜児も、竜児の心も、生きているのだ。殺そうとすれば、血を噴くのだ。

「隠し通して踏みつけて、事実を殺してしまわなくちゃいけない、自分を殺さなくてはならないが、殺そうとすれば、血を噴く」経験は恋愛のみならず、仕事絡みでも人付き合い全般ではありうることだろう。「想いの残滓の塊ともいうべきヘアピン」はキーアイテムだが、この物語に悲劇性を付与する小道具としてさり気なく良い役割を演じている。シェイクスピアの「アントニーとクレオパトラ」や「ロミオとジュリエット」の最終局面にも似て、思わぬ行き違いが巡り巡って「どうしてこうなっちまった」感を演出している。

真っ白な息を吐き、思う。実乃梨にも、亜美にも、大河にも、北村にも「言わない」ことがあって、そしてときに、「言わない」ことこそが一番伝えたい事なのだろう。それを言い合って、分かり合えれば、欺瞞などではなしに、歯車は噛み合い始めるのであろう。でも、言わない、言えない。そこにある齟齬を認めるのが怖かったり、すべてを晒してやっぱり噛み合わなかった時の決定的なお別れが怖かったりして、おっかなびっくり、人は言葉を飲みこみあう。言わなくてもわかるよね?わかってくれるよね?わかり合えるよね?都合よく相手の顔色を読もうとする。でもやっぱり相手には言わせたくて、時に針をなぞるみたいにつつき合ったりもして、だから結局傷つかずにはいられないのだ。

ドラッカーは「コミュニケーションで最も大切なことは、相手の言わない本音の部分を聞くことである。」と言う。だが、それを上手く、言う・言わせるor聞く事ができれば、人生で苦労はしないだろう。だから、「人は言葉を飲みこみあい、相手の顔色を読もうとする。でもやっぱり相手には言わせたくて、時に針をなぞるみたいにつつき合ったりもして、だから結局傷つかずにはいられない」のである。

UFOは見間違いだったのか。第4巻第6巻で恋を幽霊やUFOに問える場面があった。だが、1巻冒頭で作者が言うように「そう簡単には手に入らないように、世界はそれを隠した」のだ。

また、"ここで言う"UFOについて、世の中には色んな経験をした人がいるはずだ。互いに、あるいは片方が、見なかったことにした、見間違いだった人もいただろう。また、本当に見た、乗ったことがある/乗っている/かつては乗っていた/乗り換えた人もいるのだろう。他にも、二人で作って乗った、とか様々なバリエーションが考えられる。

人生において、恋愛にどう向き合うかで人生は変わる。それは、これからの、進行中の、あるいはすでに終わった、のいずれについても同様である。そこから何を引き出すか、だ。

"言わない何か"という奥行きを人間が有する限り、一般的な意味でのAI(人工知能)は、人間のように自然な認識や推論、言語の解釈・運用はできないだろう。背景や文脈、空気、互いの関係性が言葉の裏には内包されている。

そのうえ"言った何か"でさえも、文字通りの意味とは限らない。言おうとしたことを適切に表現できなかった、意図せずよくわからない言い方になってしまった、本心とは裏腹なことをつい言ってしまった、ごまかそうとして言った、表情や声色で誤解された、など多種多様な可能性もある。

何にせよ有り体に言えば、単なる「馬鹿!」と「馬鹿ァッ!(c.v.釘宮理恵)」では意味合いは異なるのだ。作品の中で表現をどう解釈し、楽しむかは人間に許された特権である。

さて、恋や愛の形は様々だ。持田あき先生は好きな漫画家で、ドラマ放映中の「初めて恋をした日に読む話」は愛読している。ただし、「初めて恋をした日に読む話」は、むしろ「とらドラ!」ではなかろうか。作品から読み取れることは多く、実りある読書体験ができる。それだけに、櫛枝実乃梨という名は、実に皮肉な名付けに感じられた。世の作品に結ばれぬヒロインは数いれど、それは男女双方、現実においても同じことだ。だが、そこから何を得て人生を歩むかによって、恋愛は意味づけられ、糧となる。

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