馬車郎の私邸

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ミクロ経済学と恋愛のアナロジー

 ミクロ経済学の知見に、恋愛とのアナロジーを見出すことが本稿の目的である。まずは、サンクコストと機会費用について考えてみよう。

 埋没費用ないしサンクコスト(sunk cost)とは、「事業に投下した資金のうち、事業の撤退・縮小を行ったとしても回収できない費用。」である。「ある対象への金銭的・精神的・時間的投資をしつづけることが損失につながるとわかっているにもかかわらず、それまでの投資を惜しみ、投資をやめられない状態」として、コンコルド効果とも言われる。

 そして、サンクコストは、これからの意思決定に影響を与えてはいけない。なぜなら、サンクコストはもはや回収できない費用だからである。したがって、前の彼氏、彼女への時間的、感情的、金銭的、その他諸々の投資は回収不能なサンクコストであるため、過去に拘泥することはこれからの意思決定に悪影響を与える。とりわけ、男性はオスでもあるため、次の女性を探すのは、動物としての自然な性質に適っているといえよう。(ただしその性質に追従するかどうかはあなたの価値観しだいである)過去に対する見切りのつけ方、対処の仕方は生きる上で重要な要素なのかもしれない。俗に恋愛について、「女性=上書き保存、男性=別名で保存」と言われる。この意味でも、男性は留意が必要であろう。

 次に機会費用(opportunity cost)について考える。機会費用とは、「ある行動を選択することで失われる、他の選択肢を選んでいたら得られたであろう利益」である。このことを裏返すと、あるものの費用はそれを得るために放棄したものの価値であるとも言えそうだ。機会費用を考えた場合、「据え膳食わぬは男の恥」というのはある意味理にかなっているかもしれない。恋愛において確実にチャンスを活かす人物の行動は、周りからみると、場合によっては機会主義的行動や裁定取引のようにさえ視えることもあろう。そうした人物の行いは確かにあさましいともとれるのかもしれない。しかし、実際のところ、意図しているとせざるとに関わらず、結果的には、機会費用の面から最適な行動を取っていると、みなせないこともないのだ。

 第3に、ホールドアップ問題 と"ホレた弱み"の関係について考察しようと思う。ホールドアップ問題とは、「いったん行われてしまうと元に戻すのが難しく、しかも交渉の相手の強さを増してしまうような投資に関して発生する問題であり、主に不完備契約(内容が不確実であるような契約)において発生」するものである。なるほど、ホレている側からの告白は、いったん行われてしまうと元に戻すのが難しく、しかも交渉の相手の強さを増してしまうような投資」ではないだろうか。ホレている側にとって相手は重要な存在だが、ホレられた側にとっては相対的に相手は重要な存在ではなかろう。もちろん、恋愛は、内容が不確実な不完備契約でもある。

 さらに、このホールドアップ問題について話を進める。ホールドアップ問題では、「関係特殊投資(たとえ当事者にとってこの取引が有益であろうとも、その他の取引では価値が無くなるような投資)を行っている場合、取引に関する交渉が決裂して関係が継続されなくなれば、投資は全く無意味なものとなってしまう。そのため、投資を行う経済主体には、そのことに付け込まれ不本意な譲歩を強いられる危険性がある。」

 ホレた側からの告白は、まさしく関係特殊投資である。恋愛は基本的にはひとりの相手に対してのものであり、分散投資によるリスク低減は効かない(やったら二股の謗りは免れないであろう)。すべての告白は当の本人にとってだけ有益であろうとも、それ以外の価値は持たない(もしかしたら利害関係者がいるかも知れないが…)。ホレられた側にとっては、告白した人に利用価値がないと見れば、取引≒告白に関する交渉を継続しない、つまり振るだろう。また、告白した人に利用価値ありと見て、付き合ったとしても、関係を継続しない=振るという選択肢をホレられた側は持ち合わせている。投資を行う経済主体=告白した側には、ホレた弱みに付け込まれ不本意な譲歩を強いられる危険性がある。ホレた側は、仮に告白が成功して付き合えたとしても、相手をホレさせない限りは、ほぼ無制限の譲歩を余儀なくされるであろう。あるいは、何らかの落ち度があった場合(なくても飽きられたら)、見限られるであろう。生殺与奪の権を相手に握られているのだから。

 このように、ミクロ経済学の観点から恋愛について考察を行ってきたが、こうした示唆を役立てて、例えば別れた二人がいるとして、それぞれ新しいパートナーを見つけることが出来れば幸いである。この際自分のことは棚に上げるとする。あえてサンクコストに依拠した意思決定、機会損失になる意思決定を、自分の意志で繰り返してきたためだ。だが、それは間違いなく自分の意志に基づくものであり、自分の価値観に殉じるものであった。したがって、優柔不断の結果ではないために、意思決定の責任の一切は自分にあり、後悔の対象には成り得ない。功利主義者は、以上で述べたミクロ経済学の知見を大いに活用し、幸せになってほしい。だが、自分の場合、美学に反するという観点から、自分で書いておきながらも、以上の考察の内容には積極的に与するつもりはない。

ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』で、功利主義と個人の自由に関する論考のなかで"愚行権"の概念を示した。これは、生命や身体など、自分の所有に帰するものは、他者への危害を引き起こさない限りで、たとえその決定の内容が理性的に見て愚行と見なされようとも、対応能力をもつ成人の自己決定に委ねられるべきである、とする主張である。私は恋愛については功利主義者になろうとは思わない。ホモ・エコノミクスではないからである。(ホモでもない)少女漫画を読み過ぎた影響であろうか。見返りを求めない愛、もはや瀕死の愛を自分の手で殺せない以上は、そうした思いを無理に殺しきる必要もなく、打ち捨てておく以外にないのである。諦観と時の流れに任せることがこの場合の自然で次善の方策であろう。


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